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私は、昨日、府上征三牧師の告別式に出ながら、「陰府の力に打ち勝つキリストの教会」という言葉を思っていた。
使徒信条では、「聖なる公同の教会を信ず」となっているが、そして、わたしは基本的に、これを受け入れているが、むしろ、「陰府の力に打ち勝つ」とキリストが確約されている教会を信じたい。そして、そのように告白したい。 歴史的教会の現実を知れば知るほど、わたしたちは実際の教会の情けなさに打ちひしがれる思いになるのであるが、その教会の現実を知りつつも、このキリストの教会こそが、陰府の力に打ち勝つことを信じよう。それはなぜか、キリストが、教会の惨めさを誰よりも知っているお方が、その教会のことを陰府の力に打ち勝つと言われているからである。「陰府の力に打ち勝つ教会」ということは、信じることしかできないものである。 しかし、私は、イエス・キリストは死に打ち勝って復活されたと信じているゆえに、そのキリストに属する教会もまた勝利を勝ち取ると信じよう。 わたしの、これからの歩みは、この信仰によって、歩もう。日本基督教団の合同時の惨めさや、戦争に協力して罪を犯したことを受け止めつつ、それでもそれがキリストの教会であって、罪を告白することがゆるされている教会であることを信じよう。 このようにして、わたしは、天皇の代替わりの時を前進し、この戦争に向かおうとしている日本に向かって、主の語られることを伝えていこう。 人気ブログランキング にほんブログ村 #
by kokakusouhachi
| 2018-01-20 00:37
| 随筆
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by kokakusouhachi
| 2018-01-20 00:16
| 随筆
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最後まで読み進んで、2017年6月2日に三度目読み終わっているのを知った。昨年の夏前に読んでいたことになるが、記憶がない。
それはともかくとして、私が、この著作を読み直す気になったのは、幸徳秋水がこの著作を書いた時代の日本のことを知りたかったのだと思われる。1901年。読んでいる内に、これは、当時の日本だけでなく、全世界に広がっている帝国主義弾劾の書であることがわかってきた。つまり、当時の日本だけのことではなく、ロシアや全世界の帝国主義国のことが書かれているのであって、日露戦争に向かいつつある日本の、読者たちに向かって、愛国心と軍国主義に反対し立ち上がるように呼びかけている書であることがわかってきた。 そして、この4度目の通読を終えて、冒頭の数行を読み直してみると、大変な危機意識をもって、この書を幸徳秋水が書いているのがわかってきた。わたしは、幸徳秋水の心の一端に触れ始めた気がする。本当に、この書を理解するようになるのは、これからだ、という感じがしている。しかし、この書は、まだ生命を失っていない。愛国心も軍国主義もなくなってはおらず、憲法第9条を持っている日本も、安倍政権下、幸徳秋水が喝破している「愛国心」「軍国主義」の野蛮を克服するどころか、悪い意味での先祖返りをし始めているように思われる。それだからこそ、なんとなく、この著作を読み返したくなったのだと思われる。 昔の人の文体だし、読みにくい漢字を使って書かれているせいで、なかなかすっと心に入って来ないのであるが、意外に、この書物は現代的な書物である。好戦的なアメリカ、好戦的な安倍政権。 明治維新以後の日本の歴史を自分なりに理解しようと、今までになく日本の歴史の現実に接近しようと試みてみると、今までになく、明治がわたしに近づいてくるのである。 この『帝国主義』で書かれている「愛国心」と「軍国主義」の問題を、日本人は克服していないということが、痛いほどわかってきている。今の日本で進んでいることに逆らいつつ歩んでいると、確かに、この「愛国心」と「軍国主義」が問題の中心にあることが明らかになりつつある。 人気ブログランキング にほんブログ村 #
by kokakusouhachi
| 2018-01-19 23:13
| 随筆
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京都の洛陽教会である。
今日は、帰りが夕方になろう。 しかし、わたしには、一つの大きな御言葉が、昨日与えられた。それは、史的イエスの言葉ではない、と聖書学者たちは言う。確かに、学問的にはそう言えるかもしれない。 しかし、これは、ペトロに啓示されたイエス・キリストの言葉かもしれないのである。いや、わたしはそう信じる。啓示というものを信じなければ、聖書の言葉も神の言葉と受け取れないであろう。パウロの手紙を読んでいたら、パウロには、断続的に新しく啓示されたことがあることがわかる。それなら、ペトロに啓示がなかったとは言えないであろう。復活されたキリストが天に上られた後、天におられるキリストから、ペトロに語りかけられなかった、と言うことはできない。むしろ、パウロに起きたことは、ペトロに先に起きたと考える方が、自然であろう。 信仰を告白したのは、パウロよりペトロの方がだいぶまえだったし、それはまた地上におられた主の面前でなされたのである。 私は、今や、心の上に重くのしかかった重しが取り除かれた思いがしている。教会に対して、絶望を感じていたが、この弱い、間違いだらけのしばしば罪を犯す教会であっても、主の力によって陰府の力にも打ち勝つのである。 教会は、まだ戦闘中であり、しばしば、無惨な姿をさらしているにしても、教会が主と仰ぐ方によって再び立たされ、陰府の力に打ち勝つ。自分の力によってではなく、キリストの言葉によって、聖霊の力によって、陰府の力に打ち勝つ。 人気ブログランキング にほんブログ村 #
by kokakusouhachi
| 2018-01-19 09:09
| 随筆
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by kokakusouhachi
| 2018-01-19 00:12
| 随筆
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