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by kokakusouhachi
| 2015-03-31 22:32
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by kokakusouhachi
| 2015-03-31 22:10
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今年の5月の日本基督教団大阪教区総会に出す議員提案の議案を書き上げ、二人の人に見てもらい、議案を確定。賛同者をメールで求め始めた。後は、FAXで賛同者を求めるつもり。
季節の変わり目のせいか、目がかすむし、精神集中が困難であったり、なんともすっきりしないが、このブログで書くことは書いているという気はある。前より、大胆に書いているということである。 その程度で「大胆か」と言われそうだが、まあ、そうである。 しかし、まだものが言える時代ではあると思う。もうすぐ人のものの言えない夜が来るかもしれない。しかし、それも限度のあることである。キリストは「世に打ち勝たれた」から。キリストの勝利は過去の事でありながら、現在も効力を持ち、最期は、決定的に明らかになるから。 ![]() 人気ブログランキングへ ![]() にほんブログ村 ▲
by kokakusouhachi
| 2015-03-31 17:39
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それは、釜ヶ崎で活動しているある牧師のことであるが、釜ヶ崎の労働者の多数の人たちが住民票から削除されて選挙権を行使できなくなったことに抗議し、選挙権を行使できるように働きかけていた時に「威力業務妨害」ということで、逮捕、拘留された。わたしは、正確な数字を書くことが出来ないが、100日以上、拘置所に入れられていた。裁判で争ったが、無罪にはならなかった。最高裁まで争った。最後は「言論の自由」をめぐっての争いになったが、問題は矮小化され、言論の自由が侵されたことは不問に付された。彼は何一つ力をふるって妨害などしていなかった。
この時、逮捕拘留されたのは、牧師一人ではなく、数名が逮捕されたのである。 正確なことをここで調べ、正確に書くことができないのだが、逮捕されたのも、100日を越えて拘留されたのも間違いない。わたしたちは幾度も拘置所に、その牧師に面会に行った。 だから、言うのである。 すでに牧師が逮捕・拘留される時代は始まっているのである。 これらのことはここ2,3年で起きてきたことである。あの東日本大震災が起きたあとのことだった。 ![]() 人気ブログランキングへ ![]() にほんブログ村 ▲
by kokakusouhachi
| 2015-03-31 13:23
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なぜなら、戦争とは人を殺すものだから、戦争しようとする人たちはたいてい人の命を歯牙にもかけていないのだから、その人たちの前に立ちはだかろうとするならば、殺される覚悟をしなければならない時がある。そういう時は必ず来るだろう。
かつて、わたしは人前で、このことを語ったことがあったが、その時、はっきり「これは口に出したくない」と思ったことをよく覚えている。それは、自分の語った言葉のとおりに自分が生きようとしたら、本当に殺されるかもしれない、とその時思ったのである。だから、口にしたくなかった。「あの時、あなたはそう言ったではありませんか」と誰かに言われるかもしれないと思ったからである。しかし、誰が言わなくても、わたし自身はそのことを覚えているから、わたしは逃げようがない。その言葉を覚えている私自身がわたしを責めるだろう。 わたしは、逮捕されたり、迫害されたり、殺されたりする、そういう覚悟をしなければ「平和」を語れない時代に、今まさに入ろうとしていると考えている。 カトリック司教団は、平和についてのメッセージを既に出した。日本基督教団は、沈黙したままである。これからも沈黙し続けるだろう。もし、日本基督教団の現在の指導者たちが、主の言葉「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」という御言葉に忠実であったなら、既に教団の社会員会は声明の一つも出していたろう。それができないのである。迫害を受けることがこわいからである。 だから、私のような一介の名もない牧師が、私的なブログで、こんなことを書かざるを得ないのである。もし、日本基督教団が主に忠実であって、たたかうべきものと戦っていれば、わたしがこんな私的なブログでこんなことを書かずにすむのである。 ![]() 人気ブログランキングへ ![]() にほんブログ村 ▲
by kokakusouhachi
| 2015-03-31 09:45
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もちろん、情報は必要である。しかし、情報を得ても、それを危険を犯しても人々に伝えようという覚悟がなければ、せっかく得た情報を生かすことはできない。
古賀茂明さんと古館伊知郎さんの違いは、そこにある。そして、たいていの人は古館伊知郎さんのようなスタンスをとっているものである。むしろ、古館さんは勇気がある方だろう。古舘さんを非難することはできるだろうし、しなければならないだろうが、彼は組織人なのである。どうしても組織人の枠を越えられない。報道ステーションという存在を彼も守ろうとしたのである。 だから、くびを覚悟したことがある人、覚悟がある人でなければ、古館さんを批判できないだろう。そうでなければ、批判している人も自分も同じ状況に置かれたら、古館さんと同じことをすることはまず間違いない。 ペトロたち弟子たちは、主がつかまる前は、死ぬことがあっても、主を裏切るようなことはしませんと言っていたのである。それなのに、その時がきたら、弟子たちは主を見捨てて逃げ去った。わたしたちはもろい。 それでも、後になって、あの時は主を否認したペトロが、最後は主のために死んだように書かれている箇所がヨハネによる福音書の最後に書かれている。 古賀さんは、たぶんクリスチャンではなかろうが、彼の強みは、一度もの申して経産省をやめさせられているという経験をしていることである。その頃から彼は、真実だと思うことはくびを覚悟で言う人だったのである。古賀さんのような人が珍しいのであるが、古賀さんのような人がもっと出て来なければならないだろう。 そして、わたしは言っておきたいが、ペトロのように、また他の弟子たちのようにいざとなったら逃げたような人がまた立ち上がらされて、今度は同じような危機に直面しても、逃げずに立ち向かうようになる、ということは実際起こりうることだし、起こって来たということである。 ![]() 人気ブログランキングへ ![]() にほんブログ村 ▲
by kokakusouhachi
| 2015-03-31 09:22
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彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか。誰がわれらに気づくものか」と。(旧約聖書イザヤ書29章15節)
全く「特定秘密保護法」を思い出させる聖句である。安倍政権を思い起こさせる聖句である。 ![]() 人気ブログランキングへ ![]() にほんブログ村 ▲
by kokakusouhachi
| 2015-03-31 08:59
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ひたすらに暴走している。破滅・亡国への暴走。
しかし、テレビを見ていると、世の中の多くの人々は、何事もないかのように笑い、日常生活に打ち興じている。 タイタニックが、氷山に激突し、沈没するに至るまで、そこで人々が笑いさざめいていたように。 わたしたちの前に、地獄図が現出するにはまだ時が残されているだろう。今目覚めなければ、どうしようもない。 ![]() 人気ブログランキングへ ![]() にほんブログ村 ▲
by kokakusouhachi
| 2015-03-30 23:36
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またしても国会で「わが軍」と言ってしまい、それを責められて「自衛隊」と言いなおし、「もうわが軍とは言わない」と言うに至ったが、心の中はかわらないだろう。
安倍晋三氏は、自民党を私物化し、公明党も私物化し、自衛隊も私物化しているから「わが軍」というのである。しかし、安倍首相は「私物化」だと言っても、「全く違う」と言うだろう。彼にとって「自分」も「日本国」も「同一」だからである。これは全体主義国家観であって、日本国憲法の精神にきわめて相反するものである。 ![]() 人気ブログランキングへ ![]() にほんブログ村 ▲
by kokakusouhachi
| 2015-03-30 23:27
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今日の報道ステーションで、古賀発言に対する菅長官の発言に対して、古館さんが語った言葉でそう思った。
古舘さんにしてみれば、報道ステーションという番組をなんとか守りたかったのだろうが、安倍官邸の言論統制に屈したということであろう。 今、思い出すのは、日本基督教団の最初の「統理」富田が、教団成立の次の年1942年、伊勢神宮にそのことの報告に行ったということである。伊勢神宮というのは、天皇家と密接不可分の神宮である。日本基督教団の代表である統理は、天皇国家に忠誠を示したと言えようか。富田統理は、「日本基督教団を守るために」ということである。しかし、これで日本基督教団を守ることができたと言えるだろうか。 だからこそ、後に鈴木正久議長名で教団は「戦責告白」を出すことになったのである。 ![]() 人気ブログランキングへ ![]() にほんブログ村 ▲
by kokakusouhachi
| 2015-03-30 23:15
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