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義人は信仰によって生きる
2023年2月5日 日本基督教団高石教会で わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者(義人)は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 (ローマの信徒への手紙1章16,17節) 今日は、創立130周年の記念礼拝に呼んでくださってありがとうございました。全く予想していなかったことで驚きました。 さて、早速、説教の中心に入ります。 一木千鶴子牧師と私が、高石教会の最後の1,2年で、特に取り組んでいたのは、旧約聖書をいかに読むかということでした。 これは、聖書研究祈祷会で、旧約聖書をもっと理解したいという声があがったからでした。 その後、旧約聖書が中心的なことで、何を語っているか、ということをいろいろな言葉で言い表そうとしましました。ときに、ルターの言葉を紹介したりしました。 今日は、聖書自体の言葉で言い表しましょう。旧約聖書は「義人は信仰によって生きる」というということです。パウロがこの手紙を書いた時は、今日言うところの旧約聖書しかありませんでした。この旧約聖書の中で中心的なこと、大事なこととして言われていることは「義人は信仰によって生きる」ということだと、ここでパウロは書いているのです。 「義人は信仰によって生きる」。これは、さきほど司会者に寄っていただいた聖書の翻訳では、「正しい者は信仰によって生きる」となっています。意味は少しもかわりません。ただ、語呂がいいので、説教題は「義人は信仰によって生きる」にさせていただきました。 この「義人は信仰によって生きる」こそが、聖書が一貫して言っていることだ、とここでパウロは言っているのです。 その際、パウロは、「信仰」ということで、アブラハムの信仰を考えていました。神の約束を信じる信仰、神の国を待ち望む信仰です。神さまが計画された、恵み深い約束を信じる信仰です。 まず、創世記15章5,6節をお読みします。 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 最後の「主はそれを彼の義と認められた」とあるところに注目したい、と思います。「それを」というのは「信仰を」ということです。アブラハムが、神様の約束を信じた、ということを神は義を認められたわけではありません。信じたので、義とされたのです。救いは、ただただ、神から来るというのです。私たちの努力・精進によって、救いが来るのではない。神様が約束され、その約束を実行されることによって救いは来る。 すでに、神様は約束の大半を成就されました。 神は、既に約束された救い主をわたしたちに、与えてくださいました。 その救い主は、救いの業を成就して、死者の中から復活され、今、活きておられます。 しかし、まだ、成就されていないことが残っているのです。 わたしたちは、最終的に滅びないものにかえられる。神の国が成就する。その時が来るのを待ち望みながら、前進しています。 聖書の民は、キリストを待ち望んでいました。聖書の民はイエス・キリストの来られることを待ち望んでいました。 そして、ついに、イエス・キリストが来られました。そして、救いの業を成し遂げられて、天に昇られました。新約聖書はその後に書かれたものです。 旧約聖書が書かれた後に、イスラエルでイエス・キリストがお生まれになって、およそ30歳ごろから、世に姿を現され、神の国の福音を宣べ伝えられたり、病人を癒されました。最後はユダヤ人たちの怒りを買って、捕らえられ、十字架刑にあって死なれました。墓に葬られました。 しかし、驚くべきことに、この墓に葬られたイエスが、突然、弟子たちに姿を見せられた。 パウロは、イエスの十字架につけられるまでの弟子ではありません。ペトロたちのように、イエスにつき従い、ガリラヤを巡り、デカポリスの地方や、ツロ・シドンについてゆく、ということもありませんでした。ペトロが、「あなたは、メシアです。」と初めての信仰告白をした時も、パウロはその場にいませんでした。教会がペンテコステの日に、聖霊を受けて、伝道を開始した時も、パウロはそこにいませんでした。 パウロが、登場するのは、パウロがユダヤ教徒として熱心に、神の教会を迫害していた時です。かつて、教会の迫害者であった人が、さきほど読んでいただいた聖書の箇所を書いたのです。その中で、「義人は信仰によって生きる」と書きました。「正しい者は、信仰によって生きる」と書きました。かつては彼は「掟を立派に守って、神様に認められよう」と思っていました。道徳的に立派な行い、律法にかなった正しい行いをすることによって、神によしとされる、と信じて生きていた人です。律法主義者中の律法主義者だった。そうした彼は、キリスト教会を撲滅しようとしていました。そうすることが、神に喜ばれることだと考えていたのです。この、教会を迫害している真っ最中に、突然、復活されたイエス・キリストが、パウロを襲われたのです。そのことは使徒言行録に3度に渡って書かれています。しかし、今はパウロ自身の言葉で、確認しましょう。コリントの信徒への手紙第一15章1節から9節までです。新約聖書320頁。 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはあこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずに生まれたようなわたしにも現れました。わたしは教会を迫害したものですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 パウロは、ここで、復活し、今活きておられるイエス・キリストが、当時、教会を迫害していたパウロに「現れた」のだ、証言しています。この「現れた」という言葉は、ここに5回も使われています。「現れた」ということが重大だからです。予想もしない時に、神様の側から、復活のキリストを遣わされた、というのです。教会を迫害しているパウロをめがけて、復活されたイエス・キリストはやってこられ、御自分が活きておられる、ということを示された。その上でパウロを使徒として任命されたのです。こうして、パウロは、今日読んでいます「ローマの信徒への手紙」を書けるような人となりました。パウロがこの手紙を書くことができるようになったのは、復活され活きておられるイエス・キリストが、パウロに姿を見せられたからです。イエス・キリストがパウロに現れたからです。パウロに語りかけられたからです。そうでなければ、パウロはイエス・キリストを信じる者にはならなかった。 パウロは、この手紙を使徒として書いています。今日、説教題とさせていただいている「義人は信仰によって生きる」「正しい者は信仰によって生きる」は、旧約聖書のハバクク書2章4節にある言葉です。パウロは、自分が、これから手紙で書こうとしているのは、ハバクク書2章4節で言われていることと同じだというのです。かつて、神はアブラハムに、「天を仰いで、星の数を数えることができるなら、数えてみるがよい。」と言われ、さらに「あなたの子孫はこのようになる」と言われました。アブラハムは、主のその言葉を信じました。そして、主はアブラハムの信仰を義と認められました。アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるゆえんです。 そして、神は、アブラハムに約束されたことをイエス・キリストによって実現されました。しかし、まだすべてが実現されたわけではありません。再び、イエス・キリストが来られる時に、すべてが成就するのです。わたしたちは、そのときに向かって、歩みを進めています。 わたしたちは、使徒パウロや他の使徒たちとは違って、復活したイエス・キリストを見ることはゆるされていません。使徒たちは、使徒の働きをするために、復活したイエス・キリストを見ることが許されたのです。いわば、職務の遂行上、使徒たちは、特別な啓示を受けたのです。 使徒パウロに姿を見せられたのを最後に、復活されたイエス・キリストを見た人は誰もいません。 わたしたちは、「見ることによって生きる」のではなく、証言を信じることによって生きるのです。使徒たちが「自分たちに、イエス・キリストが現れてくださった」という証言を信じることによって生きるまた、神はイエス・キリストによって、わたしたちの罪を取り除いて下さった、と信じることによって生きる。イエス・キリストによって、永遠の命が与えられることを信じることによって生きる。「義人は信仰によって生きる。」 「義人は信仰によって生きる。」これは、「義人はイエス・キリストを信じる信仰によって生きる」ともいえるでしょう。 この同じ「ローマの信徒への手紙」10章の9節と10節には、こういう言葉もあります。 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです。」 わたしは、説教の最後に、特に大事だと思うことを強調して終わりたい、と思います。「義人は信仰によって生きる。」 では、その「信仰」は何か。「イエスは活きておられる」という信仰です。 福音書に、十字架につけられて死んだと書かれている「ナザレのイエスは生きておられる」ということです。 あのイエスは、この瞬間にも生きておられる。 ただ、魂だけということでなく、体を持った方として生きておられる。 ただ、この瞬間だけということなく、永遠の命をもって生きておられる。 もはや死なれることのない方として活きておられる。 わたしたちは、この方を見ることはできません。 今は、私たちの見ることができない天にいらっしゃる。 そして、聖書を用いて、わたしたちにその見えない天から語りかけてくださる。 また、わたしたちは、その活きておられるイエス・キリストを通して、神に祈りをさささげている。イエス・キリストは、決して過ぎ去った方ではなく、今活きておられる方です。 そして、わたしたちに聖霊にお与えになる方です。その聖霊によって、わたしたちは神の言葉を聞き、神に向かって祈ることができるのです。 そして、わたしたちは、このイエス・キリストに従うことによって、神に従っている。私たちの人生の旅路を導いて下さるのは神なのです。 「イエスは活きておられる」。 そして、終わりの日、わたしたちの救いのために十字架の死を耐え忍ばれた方は、わたしたちの前に、姿を現して下さるでしょう。かつて、使徒たちに、 その復活の姿を見せられたように。 今度は、すべての人に活きておられる姿を見せられるでしょう。 主の祈りで、「御国を来たらせたまえ」と祈るとき、わたしたちは、その時が来るように祈っているのです。 イエスは活きておられます。 恵みと慈愛に富みたもう父なる神様 こうして、高石教会と高石教会に連なる方たちと共に 礼拝することをゆるされたことを感謝いたします。 どうか、今、聖書を通して、わたしたちを語ってくださったことを 繰り返し、思い出させてください。 そして、わたしたちが、信仰から信仰へと歩みを進め、 ついには、主イエス・キリストにお会いすることができますように。 そして、高石教会も、あなたに与えられた使命をよく果たすことができますように。 イエス・キリストが今「活きておられる」ことを宣べ伝え、 死を恐れて生きている人たち、光が差し上っていることを 伝えていくことがゆるされますように。 わたしたちが、死を乗り越えて、永遠の生命に至ることができるようにしてください。 今日、礼拝に集うことのかなわなかったお一人一人に恵み と平安が豊かにありますように。 御子イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。 ![]() にほんブログ村 ![]() 人気ブログランキング
by kokakusouhachi
| 2023-03-19 21:26
| 随筆
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