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キリストと共に死に、キリストと共に生きる
マルコによる福音書8章34~38節 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 (お集まりの皆さん)今日は、ご一緒に礼拝し、説教するように呼んでくださったことを感謝しています。私の名前は、横山先生が役員会で出してくださったということです。横山先生の名前は、私が丹波新生教会におりました頃から知っておりました。それが、大阪教区に来ましてから、お会いすることになりました。特に親しくさせていただくようになったのは、北村慈郎先生が、聖餐のことで、免職処分にされた後からです。おかしいではないか、ということで声を上げだした人たちに、わたしたち二人もいたわけです。しかし、今日は、そのことをお話しに来たわけではありません。 少し、個人的なことから話をさせていただきます。私と妻は、今年の3月末で、高石教会を辞し、隠退教師となりました。数年前から、体の衰えを感じるようになりまして、74歳で、隠退することになりました。 高石教会の牧師館を去り、新しい住居に移ることになり、引っ越しの準備にかかりました。一番の問題は、牧師生活38年間で、購入し、たまっていた本をどうするか、ということがありました。ちょっとした図書館分ぐらいあったのです。しかし、新しい住まいでは、本棚三つぐらいしか置けない。 それで、わたしは、考えたのです。まず、日記から捨てよう、と。日記は17歳の時に書き始めて、博文館の日記帳など使っていましたが、60数冊ぐらいになっていました。それから捨てれば、あとの本を処分しやすくなると考えました。その時、私の心にあったのは、病院のベッドの上などで、最後の時を迎えることでした。牧師をさせていただいていましたから、たくさんの人を見送って来ました。最後には、手元には、聖書一冊ぐらいしか置けない、と思いました。そこに向かって、備える、と言うことで、本やレコードを処分しました。 今、引っ越ししてから半年以上が立ちまして、今後、どのように生活するのか、ということが問題となっています。牧師をしている間、とにかく、牧師として、説教と牧会を優先してきました。特に。説教を重視してきました。しかし、わたしは、どうやら「社会派の牧師」として知られているようなのです。確かに、私は「教会の社会的責任」ということを強く意識してきました。私たちの属する日本基督教団が、戦争に加担して、多くの人たちを苦しめてきた歴史を再び、繰り返すことのないように、ということで、大阪教区では、「教会と天皇制」を考える特別委員会と核問題特別委員会に所属してきました。そういうことはあるのですが、説教中心の牧師生活をしてきたというのは、間違いありません。 それが、教会の牧師ではなくなった。どうすればいいのか。あらためて、考えさせられたのです。そして、一つのことははっきりしていました。私は、牧師をやめても、キリスト者・クリスチャンであることをやめたわけではない、というあたりまえのことです。 そのことといつまでも生きられるわけではない、ということです。人間、いつか死ぬかということは、若くても年老いていても、わからないことは同じです。しかし、年をとれば、衰えてくるものがあるのは、確かなので、死というものがま近に感じるようになってきます。以前のように、説教壇に立つこともなくなり、デモの先頭で、横断幕を持って、前進するということもできなくなった。今日は、このように説教壇に立たせていただいていますが、これは例外的にそうであるわけです。 もう一つ、わたしには、問題がありました。私は、信仰に入ったほとんど初めのころから、キリストの再臨を待ち望んでいました。説教では、そのことを前面に出して、お話しすることはありませんでしたが、そうだったのです。 これは、わたしが生まれ、育った時代背景が大きかったと思います。わたしは。広島・長崎に原爆が投下されて、3年ほど後に、広島の隣の岡山県で生まれました。そして、中学3年生の時だったともいますが、キューバ危機を経験しました。あの時、世界は後一歩で,全面核戦争に突入するようなところまで行ったのです。わたしは24歳の頃、非常に悲観的・絶望的になり、「自分が生きている間にも、世界は終わりになるかもしれない。そういう時代をどのように生きればよい、というのか」と思いました。 ある日、わたしは友人と世界の将来がいかに絶望的かということを話した後、ひどい恐怖に捕らわれて、パニック状態に陥りました。それは、夜の暗闇での出来事でした。わたしは、坂道を転がり落ちそうな恐怖を感じていました。そこに突然、光のような言葉が、わたしの心を照らしました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。これが、聖書に書かれているイエス・キリストの言葉であることはすぐわかりましたから、わたしはその場所を探しました。それは、イエスがこれから十字架につけられて殺されようとしている時が近づいている時の、キリストの言葉です。そこで、キリストは世の終わりに、どのようなことが起きるか、弟子たちに話されているのです。わたしは「天地が滅びる」のではないか、と恐れていました。しかし、イエスはそれを肯定しつつも、滅びないものがあると、わたしに教えてくださったのです。 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 その出来事は、今から50年ほど前のことでしたが、わたしは、その時と変わらず、イエス・キリストの来られるのを待っています。「義の住む新しい天と地」が生ずるのを待っています。「神の国」が来るのを待っております。 さて、わたしたちは、次第に、司会者が読んでくださった聖書の箇所に近づいています。さきほど読んでいただきましたのは、マルコによる福音書8章34節から38節まででした。しかし、この8章34節から38節までのところは、8章27節から9章13節までの大きなまとまりの中で読んだ方が、よく理解できるでしょう。そこでは、ペトロが、「あなたはメシアです。」と最初の信仰告白をしたところで始まり、9章の山上の変貌のところでは、イエスがメシア・神の子であることが、ペトロ・ヤコブ・ヨハネだけに啓示されています。 ペトロの信仰告白から始まり、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが、高い山の上で、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」の見ることになって、この段落全体が終わるのです。 さて、ペトロが、最初に「あなたはメシアです。」と答えた後、イエスは、どう言われたでしょうか。 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教えられた。 この時、イエスは、御自分が苦しみを受けて死なれることを覚悟され始めていました。最終的には、ゲッセマネの園での祈りで、決定的な前進を去れたのですが、御自分の死の時が近づいていることを遠くから望んでおられました。また、その死の後に、復活されることも。しかし、この言葉を聞いた時、ペトロには、復活の言葉は耳に入らなかった。それで、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。しかし、ペトロはそのことによって、イエスに叱られてしまった。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 これは、人の子であるイエス・キリストが、苦しみを受けて排斥されて殺される、ことが、神の御心だということです。それが、わたしたち罪人の救いになる、と言うことです。キリストが死ぬのを妨げるということは、サタンの業だということです。 しかし、こういうことがどうして理解できるでしょうか。イエスが十字架につけられて殺される、ということがわたしたちの救いとなり、神の栄光が現わされる、とどうして理解できるでしょうか。 イエス・キリストが死なれることが、わたしたちが罪の支配から解放され、新しい命に入っていくために不可欠だと、どうしてわたしたちにわかるでしょう。キリストの死が、わたしたちの救いのためだ、どうして理解できるでしょう。キリストの死が、神の栄光のためだとどうして理解できるでしょう。 こうしたことすべては、イエス・キリストの霊である聖霊が、わたしたちに教えてくださらなければ、わたしたちにはわからない。イエス・キリストが実際、死者の中から復活して、弟子たちに会いに来てくださらなければ、理解することができるようになることではありませんでした。 さて、ペトロや他の弟子たちに求められたのは、ただイエスに向かって「あなたメシアです。」を信仰告白するだけではすまなかった。いわば、それは出発点に過ぎなかった。信仰とは一つの運動です。イエスをメシア・キリストと信じ、それを告白することから出発して、死に至るまで、キリストに忠実に従ってゆく。自分を捨て、自分の十字架を背負って、前に進んで行かれるイエス・キリスト従っていく。そのようにして歩んでいる間に、キリストの再臨の時を迎えずに死ぬことになるかもしれない。しかし、キリストを待ち望みつつ、死ぬ。 イエスは言われています。 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また、福音のために命を失う者は、それを救うのである。」 若くても、年をとっても、キリストを信じる者の生き方はかわりません。キリストを信じ、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス・キリストに従い続ける。キリストが来られる前に、わたしたちは死ぬことになるかもしれないが、キリストが来られる時を待ち望みつつ、自分を捨て、自分の十字架を背負って、キリストに従い続ける。 それは、あたかも、キリストを信じない人々にとっては、「命を失う」ようなことでしょうが、実は「命を救う」ことなのだということです。 「わたしのため、また福音のために命を失う者は」とイエスは言われています。キリストを信じ、福音を宣べ伝えるために、命を失う者は、命を救う、と言われているのです。「葉隠れ」という書物には、「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあります。日々、死ぬ覚悟で、一日一日を生きよ、ということでしょう。武士道ではありませんが、わたしたちは、「キリスト道」とでも言うべきものを知っているのです。それは、キリストのため、福音のために命を失う、という生き方です。これは必ずしも、文字通り死ぬことではないでしょう。わたしたちは、「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」ということです。わたしたちは、キリストに従いつつ、罪に塗れた自分を捨てていく、それは最後まで続くでしょう。罪塗れた自分を最後まで清算することはできないでしょう。それは、わたしたちに求められてはいません。イエス・キリストは罪塗れた私たちを、既にあのゴルゴダの上で、引き受けてくださったのです。 パウロは、こう書いています。 だから、わたしたちは落胆しません。たとえ、わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は、日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。 これは、コリントの信徒への第二の手紙4章6,17節にある言葉ですが、最近になってよく心に浮かぶ言葉です。お祈りします。 主なる神様、 こうして、東神戸教会の皆さまと一緒に、礼拝をささげ、共に御言葉を聞くことが許されたことを感謝いたします。 わたしたちは、未だなお、死すべき者たちですが、わたしたちの主であるイエス・キリストは、わたしたちの死を背負って、全人類の罪を取りのぞき、死んでくださり、その後、あなたの力によって復活されました。それは、あなたの御心によるものであり、あなたの力によるものです。それは、あなたの御栄光のためでえあり、わたしたちの救いのためでした。 わたしたちは、死に向かって歩んでいますが、イエス・キリストはひとたび、死なれた後、もはや死なれることはありません。そして、わたしたちをも、復活の命・永遠の命にあずからせてくださるでしょう。 私たちは、そのような希望を持って生きています。この、わたしたちの生きている世界、この地上でいかに悲惨なことが行われているか、わたしたちは多少なりとも知っております。今なお、ロシアが核兵器を使うかもしれない、という恐れの中にわたしたちは生きています。また、原子力発電所や、核廃棄物の大事故が起きないか、気候変動の問題にも苦しんでいます。どうか、プーチン大統領の心を導いて、核兵器を使うことのないようにしてください。たとえ、最後にイエス・キリストが来られるとしても、この地上で起きていることが絶望的に思われる時も、あなたは、わたしたちに諦めずに善きことを思い、良きことを言い、良きことをするように求めておられます。それは、最後には、すべてのことをあなたがよくしてくださるからです。どうか、このような希望を持って生き、死ぬことがゆるされますように。 今日、礼拝に集うことのかなわなかったお一人一人にあなたのお守りと導きが豊かでありますように。 御子イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。 ![]() にほんブログ村 ![]() 人気ブログランキング
by kokakusouhachi
| 2022-10-19 16:44
| 随筆
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