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わたしは、「正直すぎる」と言われることがある。しかし、「正直」過ぎることがあり得るだろうか。誰も「正直」に達し得ないのである。ただイエス・キリストだけが正直な方である。(釈尊や孔子のことはここで考えていない。主に、わたしとキリストのことを考えている。)
普通、人は愛されたいと思って、自分を飾る。言葉でも。行いでも。着るものなどでも。それは、ある意味で自然なことである。 しかし、ひとは愛をひとから奪い取ることはできない。どんなに人に尽くしても、それが報いられるとは限らない。しかし、報いを求めているなら、結局、ひとのためにと言いながら、自分のためにしているのである。 むしろ、わたしたちは、わたしたちがいかなる者であろうとも、神に愛されていることを知るべきだろう。神の愛を信じられないばかりにいかに多くの悲惨がこの地上に生じたことか。 ひとが安らぐことができるのは、ただ、無条件に、神が自分を愛してくださっていることを信じられる時だけである。自分が、神に愛されるものになろうとか人に愛されるようになろうと、務めたところで、それは失敗することははっきりしている。もし、わたしたちが、自分たちの努力で、神を愛し、隣人を愛することができるなら、キリストが来られる必要はなかった。キリストは十字架につけられて死なれる必要もなかった。律法だけで十分だったのである。 そして、わたしたちが、「わたしは神に愛されている」と心から信じることができるようになるのは、自分の罪を背負ってキリストは十字架の上で死んでくださり、キリストはわたしたちが新しく生きることができるように、神に向かって生きることができるように、復活されたと知ることによってだけである。 もし、人が神に愛されていることを知らないままだと、その人は結局、権力を欲しがるようになるだろう。神と人に愛されるかわりに、人を支配することで人間関係に喜びを感じることしかできなくなるのである。 昔、リヒャルト・ワーグナーの『ニュールンゲンの指輪』という楽劇を聞いていた時、「愛を捨てて、権力を得るようになった」という意味の歌詞があって、妙に印象深く、覚えてしまったのだが、時々、あれは何を言っているのだろう、と考えることがある。 ところで、申し訳ないのだが、ここで安倍晋三氏のことを思い浮かべてしまう。彼は、神の愛を知らないだろう。キリストが彼の罪を取り除くためにも、十字架の上で死なれ、彼が新しく生きることができるように、復活されたことを知らないだろう。知るようになってほしいものである。彼は、「愛する」ことの代用として「支配する」ことをしているのではないか、と思われるのである。 わたしは、このブログに安倍晋三氏のエピソードをいくつか書いて来たが、いつも気になっていた、安倍晋三氏が、映画監督になりたがっていた、というエピソードは書いて来なかった。しかし、それをこのブログに引用する時が来たようである。野上忠興著『安倍晋三 沈黙の仮面』27頁。 小学校高学年になると、「寛ちゃんが、お出かけ専門に対し、晋ちゃんは、連れ込み専門」とウメが述懐したように、「寂しがり屋」の安倍は、大勢の友人を、やたらと家に連れてくるようになり「友達の靴で足の踏み場もないほどだった」。で、「二階の座敷を占領してワイワイガヤガヤやっているから何をしているのか」とウメがのぞくと「映画監督ごっこだった」。 部屋の片隅に安倍が台本代わりに本を持って監督然として座っている。大笑いの大シーンだったのか、安倍から「お前、そこで笑うんだよ」との注文が飛んだ。これに応えてクラスメイトの1人が「ワッハッハ」とやる。すると安倍は「もっと大きな声で笑わないとだめだ!」と厳しい言葉を浴びせる。何度かやらせたあと、安倍野「カット!」の声が飛ぶ。「晋ちゃんは、もうすっかり監督さん気取りだったわね」。 ちなみに今でも安倍の映画好きはつとに知られており、「政治家にならなかったら、映画監督になりたかったんだがね」と周辺に話しているほどだ。 台本を手に俳優を自分の描くイメージ通り振り付けし、自由自在に動かす。納得できなければ何度ても演技をやり直させる。「自己主張・自我が人一倍強い」(ウメ)晋三に映画監督は合っているのかもしれない。政治では、それが強いリーダーシップにもなり、独裁とも批判されるのだが。 級友の間では「平然ぶり」が売りの安倍ではあったが、一方で夜になると、「温もりのない家庭」に育った反動なのか、甘えん坊の一面が顔を出し、ウメの「添い寝」が中学時代まで続いた。 「夜、晋ちゃんを起こしておしっこさせるでしょ。そして自分の部屋に寝かせる。私が用足しして戻ってくると、『こっちのほうが、あったかいや』って私の部屋の布団にもぐり込んでくるの。それが中学生になっても続いたの。向かいの部屋からノソノソと起き出しては『ウメさん、入れて』と布団に入ってきた。『あんたもう中学生でしょう』って言ったものでしたが、潜り込みは続きました。私は小柄だったし、寝入ってから部屋に戻すのが重くて大変だったことを覚えている。それだけ愛情に飢えていたのでしょうね」 父親の安倍晋太郎、母親の安倍洋子の問題を感じる。お二人が、息子の晋三をもっと愛してくれていたら、今、国民はこんなにひどい目にあっていないかもしれないのである。情けなさ過ぎる。 しかし、このような安倍晋三氏に、日本が牛耳られているというのは、国民もあまりに不甲斐ないのではないか。 にほんブログ村 人気ブログランキング
by kokakusouhachi
| 2019-04-22 10:17
| 随筆
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