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「永遠の昔」というのは、新約聖書の表現にある。「永遠の今」はない。ティリヒなどの用語である。しかし、「今は救いの時」と書かれている「今」は「永遠の今」であろう。内容的には「永遠の今」はあると思う。
「永遠の未来」は聖書にはない。また、わたし自身、神学書などで読んだこともない。しかし、「永遠の昔」があるのなら、「永遠の未来」もあるのではないか。「永遠の昔」は神は「恵みの選び」=「イエス・キリストの選び」を決意された。そして、「永遠の未来」に達する前に、神の裁きがあるのである。これは。「神の恵みの裁き」ということはゆるされないであろうか。すでに、わたしたちは、イエス・キリストの十字架の上で決定的・徹底的に裁かれている。わたしたちはの未来は、その裁きの向こうにある。そして、その最後の裁きにおいて、「永遠の未来」が開始されるのではなかろうか。もちろん、決定的なことはキリストの死と復活によって、決定的な礎石が置かれているのである。神がキリストの十字架で引き受けられた人間の亡ぶべき姿は、過ぎ去り、新しい世界の誕生が始まっているのであり、そこに「永遠の未来」が姿を現し始めているのではないだろうか。こうして、神が永遠の昔におられ、決意され、世界が創造され、創造された方の中に創造者なる方が登場されたのである。これがわたしたちの主イエスであり、このイエスの登場により、「永遠の今」が出現し、それは「永遠の未来」に向かっているのである。その時、最後の審判をわたしたちは経過しなければならないのだろう。そして、初めに神がおられ、最後にも神がおられるのである。 にほんブログ村 人気ブログランキング
by kokakusouhachi
| 2019-04-15 01:20
| 随筆
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