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私は、イエス・キリストの再臨を待ち望んでいる。「義の住む新しい天と地」を待ち望んでいる。
私は、ブルームハルト父子やカール・バルトや井上良雄の「再臨信仰」に共感している。 しかし、私の「再臨信仰」は、新約聖書のイエス・キリストから来ているのであって、まだブルームハルトも知らず、カール・バルトも知らない前から、わたしの中に根付きつつあった。そのことを今朝思った。そして、それは、わたしが青年期に、「世界の終り」を強く意識し始めたことと無関係ではないだろう。 それは20代の初めのころだが、わたしは世界の未来に非常に悲観的になり、「自分の生きている間に、世界は核戦争によって滅びるかもしれない。そのような世界をどのようにしたら生きることができるか」というのが、わたしの若いころの問題だったのである。その問題は、実は、今もある。ただ、わたしはそれなりの答えを持っている。ブルーハルトが言った「待ちつつ、急ぎつつ」である。 この「世界の終り」については、今日、世界中の人たちが、意識的・無意識的に考えているだろう。「考える」ことは、必ずしも「意識」がなければされないということではない。わたし達は、寝ている間にも考えているということはあると思う。わたしは朝起きた時、自分が、昨夜考えていたことに、結論がだせるようになっているのに気づくことがある。朝は、新しい思想の結実する時である。これは、寝ている間に、心の中が整理されているとしか思えないのである。 私は、ドストエフスキーによって、創世記第3章の「楽園喪失」の物語に注目させられた。人類は、初め「楽園」に住んでいた。しかし、自ら犯した罪によって、その「楽園」を喪失した。そして、イエス・キリストは、「義の住む新しい天と地」をもたらすために、再び来て下さる、ということがわたしの希望となったのである。わたしは、一時、フランツ・カフカの絶望に心動かされたが、結局、カフカについて行こうという気にはなれなかった。むしろ、わたしはアッシジのフランチェスコに師事しようとしたのである。それは、ベテスダホームという施設で働いている期間、フランチェスコの強い影響下にあった。今は、そうではない。それでも、どこか「清貧」をよしとしているのは、まだ影響が残っているのかもしれない。 「世界の終り」のことであるが、これは、シンガーのグループにも、映画の題名にもっており、「世界の終り」が話題になることは、人類史上、もっとも広範囲に同時代的に語られている時代にわたしたちは生きているのではなかろうか。わたしは米ソ冷戦の間、核戦争の悪夢に悩まされていた。「夢」はしばしば、覆い隠されている現実の真の姿を見せてくれるということがあるのではなかろうか。 しかし、ソビエト連邦が崩壊してからは、核戦争の危機は遠のいたと思われて、一息ついたことを覚えている。 しかし、現在、世界終末時計は、世界の終末まで、数分間しかないと言っている。これは、核戦争の危機がふたたび強まっていること、地球温暖化などのこともあろう。地球温暖化については、大人たちには任せられない、とこどもたちが立ち上がり始めている。 ノーム・チョムスキーは、異常に敏感なところがある人だが、彼も、「世界の終り」が近づいているが、それを阻止するように著作で呼び掛けている。 日本では、未だに福島第一原発の事故は続いているのに、「核爆発」の危機はさしあたり遠のいたということだけで、汚染は続いており、汚染水はタンクの中にたまり続けており、今やっとデブリを見ることができるようになっただけなのに、事故はおわったのように勘違いして、原発の再稼働を始めるという愚の骨頂の政策を続けている。 安倍自民党政権の政治を見ていると、自滅・亡国の道を選んでいるとしか見えない。 「今がよければいい」と、現実を正視しようとせず、「天皇陛下、万歳!」と叫ぶ能天気なありさまには絶望的になる。そして、何か現実逃避のようにして、スポーツのことばかり報じられている。ひょっとしたら、日本「国民」の心の底には深い絶望と虚無があるのかもしれないのである。 キリストの再臨を待ち望むことが、目の前の問題に対して「無責任になる」危険性というのは確かにある。内村鑑三たちが始めた「再臨運動」を内村がやめた理由の一つには、そのことがあるのだとどこかで読んだ。 「キリストの再臨」を待ち望むというのは、現実逃避になりうるのである。ボンへッファーは、そのことにきづいていた。 しかし、まさに、ブルームハルト父子の生きざまは、「再臨信仰」は本来は、そのように現実逃避をもたらすものではない、ということを意味している。主であるイエス・キリストのことを思えばそのことははっきりする。神は、御子をこの地上に派遣されることによって、この地上で「義の住む新しい天と地」の礎を築れたのである。イエス・キリストは、この地上で、この人間世界のすべての問題を引き受けて、十字架の死に至るまで、その道を歩まれたのである。そうであるならば、わたしたちが待ち望んでいる方を待ち望む時、わたしたち一人一人は、自分の十字架を背負って、主に従いつつ、主の来たり給うのを待ち望むという仕方以外で、待ち望むということはあり得ないだろう。 十字架を担い続けるためには、キリストの再臨の希望が大きな力となるのである。 わたしたちの待ち望んでいるキリストは、十字架をも忍ばれた方なのである。わたしたちが待ち望んているキリストは、わたしたちのために、十字架の死をも耐え忍ばれた方なのである。そのことをしっかり心にとめていて忘れないならば、キリストを待ち望むことは、決して現実逃避をもたらさないだろう。 にほんブログ村 人気ブログランキング
by kokakusouhachi
| 2019-03-26 11:59
| 随筆
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