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見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせる。わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。(アモス9.13)
今日から、聖書黙想を始めることにした。毎日与えられている「日々の聖句(ローズンゲン)」の御言葉を黙想するのである。ローズンゲンは、もともと旧約聖書を第一のテキストとし、それに対応した新約聖書を第二のテキストにしている。わたしはこれまで、主に、旧約聖書のテキストをここにあげてきた。これからもそうするつもりである。 ここで、預言者アモスは、「イスラエルの繁栄を回復する」という預言をしている。神がそうされる、というのである。これは、アモス書全体をよく読んでから、釈義し、黙想するというのが、理想的な順番なのであるが、あえてそうせずに、ここから今の私が聞き取ることを、そのまま書いて行こうと思う。それが、通常わたしたちが日常生活をしながら、聖書を読む仕方だから。そうしようと思う。そして、黙想の中で、力を得たいと思う。ここ40年くらい、わたしは毎朝、ルターのもの、ボンへッファーのものを毎朝読んできた。そして気が付いたら、聖書の方ではなく、ルターやボンへッファーの言葉のほうにとらわれていたように思う。肝心の聖書の言葉が残らない、というのでは正道を歩んでいないことになる。 ここで「主」と言われているのはイスラエルの神であり、主イエスの父である神であり、わたしたちの父である神である。「その日」とは「回復の日」である。わたしたちは、それが「神の国」のことであると読むことはゆるされているだろう。「耕す者は、刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者は、種蒔きに続く」というのは、順調に種まきや収穫が続くということである。食べるのに心配せずにすむ、ということである。しかし、わたしたちの生活は、食べるのに心配してばかりの生活である。食べるということがいかに緊急の問題かというと、わたしなども老後の心配をしているわけである。ここで、すぐ思い出すのは、ドイツの告白教会のたたかいのことである。当時、ドイツの告白教会は、独裁者ヒトラーに抵抗していたので、兵糧攻めにあったことがある。この兵糧攻めは、きついものである。日本では島原の乱は、結局兵糧攻めで鎮圧されたのだった。 そして、わたしたちは、主イエスが、荒れ野で受けられた悪魔の誘惑を思い出すのである。そこで飢えに苦しむイエスは、悪魔から「石をパンにかえたらどうだ」と迫られたのであった。それに対して、イエスは、「人はパンにて生きるにあらず」と答えられたのだった。しかし、イエスのこの言葉が、イエスのパンに対するすべての言葉ではない。イエスは「主のいのり」で「日毎の糧を今日も与え給え」と祈るように、わたしたちに教えられたのである。パンのために祈るようにも言われているのである。それゆえ、ここでは神の祝福が語られているのである。「耕す者は、刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続き、山々はぶどうの汁を滴らせる」。 これは麗しい言い方ではなかろうか。この御言葉は「神の国」を遠くから指し示している。キリストが来られた時、5000人の人たちが、養われたという奇跡的な記事を読むとき、わたしたちは、そこに最終的な「神の国」ではないが、「神の国」の一部が現出しているのを知るのである。それは「イスラエルの繁栄の回復」の一つのしるしである。そして、この「イスラエル」は、今や、「異邦人」も含む「イスラエル」ということになろう。わたしたちは、なおも「イスラエルの回復」を待ち望んでいる。この「イスラエルの回復」は、再び主イエスがこられるときに成就するであろう。 にほんブログ村 人気ブログランキング
by kokakusouhachi
| 2019-02-23 00:30
| 随筆
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