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創造社が1959年7月1日発行した聖アウグウスティヌス『自由意志論』を再読し始めている。購入したのは、1973年3月24日のことである。何度か読み直しているが、最後に読み直したのは、2012年5月12日だから、6年前のことになる。
1973年4月26日、1979年8月4日、1995年2月24日、1996年9月19日に読み終わっているので、全部で5回読み直したことになる。そして、今回が6回目である。25歳の時、購入し、今70歳である。 なぜ、今また読み直す気になったか、短く書いておこう。 私は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を19歳の時読んだことが、キリスト教に関心を強く持ち始めたはじめだった。私は、ドストエフスキーの代表作はほとんど読んだが、ドストエフスキーが晩年1877年に書いた『おかしな人間の夢』がわたしにとって、かなり重要な意味を持っている。わたしは、この短編小説は旧約聖書冒頭の書、『創世記』の第3章の強い影響のもとに書かれた、と思っている。私は、自分の自動車会社での経験、ドストエフスキーの影響で、創世記第3章に目を向けるようになった。そして、アウグウスティヌスの『自由意志論』が、創世記第3章の堕罪の物語の神学的解明の著作である。 わたしが「神学」とでもいうべきことを始めたのが、この『自由意志論』である。その頃は「神学」という言葉も知らなかったのであるが。 わたしは、創世記第3章を自分なりに読み解こうとし始めたのである。その後、イギリスの詩人ジョン・ミルトンの『失楽園』も読んだ。そして、大学生の時、『始めと終わり』という短編小説を書いたが前半の部分は、創世記第3章の解釈となった。 このアウグウスティヌスの『自由意志論』は、やがて、ペラギウス論争文書となっていくのであるが、その中の一書『霊と文字』は、宗教改革者たちにも取り上げられた。だから、わたしは、後に宗教改革者たちに出会う前に、アウグウスティヌスに出会っており、アウグウスティヌスを読み始めていたことは、宗教改革者たちと出会う準備になっていた。期せずして、である。 わたしが何を問題としていたかというと「自由」の問題だった。信仰と自由の関係が問題だったのである。あるいは「神の自由と人間の自由」の問題だったとも言える。ルターは、『自由意志論』ならぬ『奴隷意志論』を書いた。ルターは、そもそも罪を犯した人間は、「自由な意志」を持っていないとしたのである。わたしは、ある時期、ルターの『奴隷意志論』まで進んで、そこで停止したのだった。 ところが、私は、29歳ころからカール・バルトの著作を読むようになっており、バルトが、罪の問題を論ずる際に、創世記第3章から論ずるのではなく、キリスト論から論じているのを知り、最初は違和感を持っていたのである。しかし、わたしは、次第にバルトが何を言っているかわかるようになり、それと共にバルトに賛意を抱くようになったのである。 そして、バルトの『教会教義学』の構造がかなり明らかになってきたので、自分の歩んできた道を振り返り、アウグウスティヌスの『自由意志論』を読み直し、今自分が達している立場から、『自由意志論』に自分なりの判断をくだしたいと思うに至ったのである。 この今泉三良・井澤彌男訳の『自由意志論』を読み直しながら、今のわたしからは受け入れがたいことが書かれているのに出会う。たとえば、次のようなことが書かれている。26頁。 私たちのうちに刻みこまれているところの永遠な法の概念(nationem) わたしは、新プラトン主義についてあまり知らないが、このような生得概念の考えは、新プラトン主義に由来し、さらにはプラトンに由来するのではないか、と思われる。そして、このような思想こそ、自然神学を生み出すものではないか、と思わされている。これが正しいかどうか、それは厳密な吟味が必要かもしれないが、さしあたり、ここでは、わたしの暫定的な判断でいいだろう。 わたしがアウグウスティヌスを読まなくなったのは、神学校に行っていた時、図書館の本棚に新教新書の一冊でバルト著『聖霊とキリスト教生活』を精読してからだった。これは、決して大部な著作ではないが、私は、この著作を見つけた時、この著作を理解することは、わたしの今後の歩みにとって決定的に大事なことだと思い、時間をかけてゆっくり読んだ。そして、アウグウスティヌスから離れるようになってしまったのである。 しかし、今や、もう一度、創世記第3章を自分なりに釈義したいと思うようになり、その中で、『自由意志論』をもう一度、読み直してみたいと思うように至った。そして、そのことによって、自分の歩んできた道を振り返りたい、また自分の考えを整理したい思うに至ったのである。 にほんブログ村 人気ブログランキング
by kokakusouhachi
| 2018-11-15 00:04
| 随筆
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