最新の記事
以前の記事
カテゴリ
記事ランキング
ブログジャンル
最新のコメント
フォロー中のブログ
風のたよりー佐藤かずよし 日本がアブナイ! 広島瀬戸内新聞ニュース(... そうはちのコラム そうはちのコラム2 御言葉をください 命最優先 大山弘一のブログ 放射能に向き合う日々 世に倦む日日 社会の動向・住まいの設計 最新のトラックバック
検索
タグ
キリスト・イエス(3643)
教会(3000) 安倍晋三(2024) 森友学園(1566) 加計学園(1390) 共謀罪(159) 日本基督教団(137) 佐藤優(64) 天皇制(42) 辞書(36) ブログパーツ
外部リンク
ファン
メモ帳
ライフログ
その他のジャンル
画像一覧
|
このことについては、詳しく書く必要があるが、今はそのために時間を使いたくない。
いわゆるバルトの「万人復興説」と言われていることである。すべての人の救いのためにキリストは死なれたのだから、すべての人が、永遠の命にあずかる、というのが万人復興説だろうが、バルト自身は、自分は万人復興説を唱えていない、という。私の理解でもそうである。しかし、論理的というか法的には、すべての人がキリストの贖いの恵みにあずかっておかしくないのである。しかし、ここで「信仰が絶対不可欠だ」という議論がおこってくるだろう。 問題を先鋭化すると、「イスカリオテのユダは救われるか」ということにもなり、バルトは「イスカリオテのユダ」の問題も取り上げている。そこで、バルトは「イスカリオテのユダ」にも福音は差し出されている、と言っているが、ユダも救いにあずかるとまでは言っていない。バルトが言っていることは、「わたしたちは人間であり、神が裁かれるのであり、その前では沈黙する他ない。しかし、神の恵みを小さな範囲に限定するのはやめよう」と言っているのである。この点で、わたしはジャン・カルヴァンの「二重予定説」を読んだ時から、この説には疑問を持っていた。何か福音を否定するようなものをそこに感じたのである。バルトは、それについて、「神の絶対的意志」が最初で最後の言葉になっており、予定において、イエス・キリストがなんらの役割も果たしていないから、カルヴァンの二重予定説は、福音的な響きを失っている、というのである。これは、バルトの言葉どりではなく、私の理解するところを私なりに言葉にしたことである。 カルヴゥンの予定説は、永遠の昔から、神はある人たちを「救い」に、その他の人たちを「滅び」に定めている、というのである。そうすると、イエス・キリストは、永遠の昔に、「救い」に定められた人たちだけのために救いの業をされることになっていた、ということになるのは避けられない。しかし、そうした時、「神は愛である」という聖書にある言葉がにわかに力を失うのではなかろうか。カルヴァンの文章を読み始めた時、カルヴァンの「冷たさ」を感じたことがあったが、私の理解では、その「冷たさ」は、その二重予定説に起因しているのではないかと私には思われるのである。 にほんブログ村 社会・政治問題ランキング
by kokakusouhachi
| 2018-06-26 09:36
| 随筆
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||