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カール・バルトの『教会教義学』は邦訳で30数巻あるが、これを30数年かかって、通読すること、少なくとも3度。7回以上読んだ巻もある。ドイツ語原著は2巻持っているが、ほとんど読んでいない。原書を購入した時は、その巻はまだ邦訳されていなかった。「神の恵みの選び」についての巻(第2巻第2分冊)、「神の言葉論」の巻(第1巻第1分冊)である。邦訳で出たので、原著を自分で翻訳して読むという大変なことはせずにすんだ。
バルトのもので一番最初に読んだのは、『ロマ書講解』だった。しかし、バルトのものを読もうと思ったのは、新教新書に入っていた、バルトの『イスカリオテのユダ』を読んだ時のことである。この時からバルトの予定説(神の恵みの選び)に目を向けるようになったが、その時は、まだ、その部分は翻訳されていなかった。 日本聖書神学校の図書室に、これも新教新書の一冊、バルトの『聖霊とキリスト教的生活』があり、わたしはかなり長い時間をかけて、これを読んだ。これは、バルトがアウグウスティヌスの神学を批判したもので、この読書はわたしには極めて意味深いものとなった。この読書の後、わたしにはバルトの方がアウグウスティヌスより重要な神学者となったのである。その読書の前は、わたしにとって最大・最高の神学者はアウグウスティヌスだったのである。キルケゴールの著作を読んでいる時に、洗礼を受けようと思ったのに、神学校に行った当初はアウグウスティヌスだったのである。 私が神学書らしい神学書を読んだのはアウグウスティヌスの『自由意志論』だった。これは、創世記第3章の「堕罪」の物語をどのように解釈するかという問題意識から読むことになったのである。これは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでから、神義論にとらわれるようになり、ドストエフスキーが書いた短編小説「おかしな男の夢」を読んで「原罪」に目を向けるようになったせいがある。この創世記第3章について思いを巡らしている間に、アウグウスティヌスのペラギウス論争の著作を読むようになり、気づかずして、宗教改革者たちの問題意識に近づいていた。 「信仰によって義とされる」ということを、決定的にわたしに伝えてくれたのは、バルトでなく、ルターだった。そして、わたしはルターだけでなく、カルヴァンを読むようになり、カルヴァンの予定説も読むようになった。その中で、バルトの予定説も視野に入って来たのである。 こういう事情があったので、わたしのバルトの『教会教義学』の読書は、「予定説」に一番の関心が向けられてきたのである。それがある程度、理解できたと思ったとき、バルトの学びは一段落したと言えよう。ところが、今年になって、どうも私は、バルトの問題意識がよくわかっていないと思うようになり、「神論の1」の部分を読み直し始めたのである。 そして、このところあちこちを読み直していると次第にわたしにわかってきたことがある。 それは、バルトにおいては「神について語る」ことが、第一次世界大戦の勃発を受けて、 きわめて困難になったという事情がある。ルターにおいて「信仰によって義とされる」ことを説教することが、説教することだった。神の言葉を語ることだった。カルヴァンのことは、ここでは省略しよう。 バルトについては、「神」について語ること自体困難になっていた。近代プロテスタンティズムは、神について語ることができなくなっていたのである。ルターが置かれている状況とバルトが置かれていた状況は、400年もたっていて、大きく変わっていたのである。この場合、状況というのは「神学的な状況」である。 バルトは、ブルームハルトから「神は神だ、世界は世界だ」ということを聞き、キルケゴールから「神と人間の無限の質的相違」を聞き、彼らの導きもあって、パウロの『ローマ人への手紙』を新たに読むようになり、そこで聞き取ったことを一冊の書物にまとめたのである。その書物はその後、全面的に書き直され、20世紀を代表する神学書とされるにいたったのである。それがバルトの『ロマ書講解』である。 ルターの場合、「ローマの信徒への手紙」は「信仰によつて義とされる」ことを主に語っている書物であったが、バルトにとっては、「神と人間の質的相違」を語っている書物となった。そこで、バルトの場合「啓示」の問題が前面に出て来たのである。それは、自然神学の徹底的排除という方向に向かったのである。バルトは、様々な人たちと対論しながら、「聖書のみ」を「啓示のみ」に先鋭化させ、キリスト論的集中を進めて、『教会教義学』を大学で講義し続け、出版し続けたのである。 そして、アンセルムス研究をすることによって、「存在の類比」ではなく「信仰の類比」を言うようになった。このアンセルムス研究の成果がバルト著『知解を求める信仰』であり、これを書くことによって、バルトは、『教会教義学』を講義する道、書く道、思考する道を見い出したのだった。バルトはアンセルムス研究をすることによって「哲学する」のではなく「神学する」ことを見い出したのであ。それまでのバルトの著作は「神学と哲学」が混淆しているところがあったと言ったらよいだろうか。バルトは、啓示に徹底して固着しようとした。このことによって、バルトは、前進しつづける道を見い出したのである。 『教会教義学』の読み方について、というタイトルで書き始めた文章が、かなり別のことを書くようになつてしまったが、最後にタイトルのことについて書いておこう。 バルトの『教会教義学』は本文と細い字で書かれた註の部分から構成されている。バルトの著作は長大なので、本文だけ読む人たちがでてきたようだし、細かい字の註のところを読む人の方を主に読んだ人たちもいたようである。バルト自身としては、両方とも読んでもらいたいのに、なかなか両方読んでくれなくて、自分の伝えたいことの真意が伝わっていないという歯がゆい思いを著者バルトはしたようである。それは、わたしもよくわかるのである。 わたしは、基本的には、本文を読み、細かい字のところを読み、また本文を読むという仕方で読んで来た。これは、たぶんバルトの望んだ読み方である。 しかし、わたしは既に何度も読んで来たので、最近では、以下のような読み方をするようになっている。それは本文だけをある程度、読んでしまうのである。それから、註のところを読む。こうした読み方をする方が全体を把握しやすく、早く読めるのである。しかし、この方法は、ある程度既に通読しているから有効な読み方かもしれない。 それにしても、読み返すたびに新しい発見をしている。 そして、わたしの判断だと、バルトはトマス・アクィナスやアウグウスティヌスにもまさる人である。ルターやカルヴァンは自然神学の問題にバルトほど徹底して取り組んでいなくて、バルトほど啓示に集中した人はいない。 誰が一番かという判断は、神学の領域ではすべきではなかろうが、私には、聖書に忠実な人としてバルトの名前は大きいのである。それにしても、宗教改革者なしにバルトはいないとも言える。 にほんブログ村 社会・政治問題ランキング
by kokakusouhachi
| 2018-06-14 21:07
| 随筆
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