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T・F・トーランスの『バルト初期神学の展開』(吉田信夫訳)の159頁。
換言すれば、神の言葉はイエス・キリストそのものであり、したがって、言葉が語られるだけでなく言葉が聞かれるのは、キリストの力においてである。われわれの側からわれわれが神から離れている時に、神は、イエス・キリストにおいて、直接的にご自身を我々に結びつけ、そして、神ご自身とわれわれとの関連との二つの道を設定したもう。もし、キリストが人となりたもうた神の言葉であるならば、キリストは、人間のところに来たりたもう神の言葉であるだけでなく、人として神の言葉をになう神の言葉なのである。キリストにおいて、われわれ人間の言葉が、その弱さとふつつかにもかかわらず、神の言葉の枠組みと土の器とされるだけでなく、この神の言葉を語りかける言葉とされるためである。この場合、肉となりたもうた言葉であるイエス・キリストは、神がそれを語ることばであるだけでなく、人がそれを聞き語り生き抜きたもうた言葉そのものである。これが、われわれが聖書において聞く言葉、人間の形態における神の言葉である。このような言葉は、人間の唇によって語られうる。 ………… 言葉が人間によって受け入れられ、人間によって知られ、人間によって語られ、しかも、どこまでも神の言葉そのものであるのは、神の言葉がご自身の自己啓示における神であるからだけでなく、神の言葉が人、すなわち、言葉がその人に伝えられる人であるからである。このような言葉は、神と人として、言葉それ自体のうちに、言葉に対する真実にして忠実な応答の積極的可能性をにない、そして、言葉の自己伝達において、言葉に対する真実にして忠実な応答の積極的可能性を運ぶ言葉である。 にほんブログ村 人気ブログランキング
by kokakusouhachi
| 2018-04-15 23:32
| 随筆
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