最新の記事
以前の記事
カテゴリ
記事ランキング
ブログジャンル
最新のコメント
フォロー中のブログ
風のたよりー佐藤かずよし 日本がアブナイ! 広島瀬戸内新聞ニュース(... そうはちのコラム そうはちのコラム2 御言葉をください 命最優先 大山弘一のブログ 放射能に向き合う日々 世に倦む日日 社会の動向・住まいの設計 最新のトラックバック
検索
タグ
キリスト・イエス(3643)
教会(3000) 安倍晋三(2024) 森友学園(1566) 加計学園(1390) 共謀罪(159) 日本基督教団(137) 佐藤優(64) 天皇制(42) 辞書(36) ブログパーツ
外部リンク
ファン
メモ帳
ライフログ
その他のジャンル
画像一覧
|
どういうわけか、天地創造以前に、思いが向かっている。
「父母未生以前」という言葉があると思うが、そしてそれは禅の言葉であったと思うが、それを思えば、天地創造にまで至り、さらにそれを質的に跳躍して、神に至るのである。そして、このことを考えていたら、ルカによる福音書のある箇所を思い出した。ルカによる福音書でイエス・キリストの系図があるのであるが、このように書かれている。 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト…………ダビデ…… アブラハム…… ノア、レメク、メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケノン、エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。(ルカによる福音書3.23~38) アダムから突然飛躍があり、神に至るのである。アダム以前ということがある。 そこにキリストがおられ、さらに神がおられるのである。結局、「教会史」をさかのぼれば、そこにまで至るのである。 神の国を待ち望みつつ、この地上で生きる。地上、社会、国の中で責任を果たしつつ。あらためて、ボンへッファーの言った「究極以前と究極の事柄」の意味を考えている。 キリストを信じ、神を信じつつ生きるということは、地上のことを放棄するということではない。この世での生存において責任を取りつつ、究極のものを待ち望むということ。 パウロが時に、死にあこがれた、ということがわかるように思われる時がある。 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしにはわかりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが、他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。(フィリピ1.21~24) パウロと比較するのはおこがましいことであるが、パウロの気持ちがほんのちょっとだけわかる気がする。 人気ブログランキング にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2018-02-14 20:33
| 随筆
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||