最新の記事
以前の記事
カテゴリ
記事ランキング
ブログジャンル
最新のコメント
フォロー中のブログ
風のたよりー佐藤かずよし 日本がアブナイ! 広島瀬戸内新聞ニュース(... そうはちのコラム そうはちのコラム2 御言葉をください 命最優先 大山弘一のブログ 放射能に向き合う日々 世に倦む日日 社会の動向・住まいの設計 最新のトラックバック
検索
タグ
キリスト・イエス(3643)
教会(3000) 安倍晋三(2024) 森友学園(1566) 加計学園(1390) 共謀罪(159) 日本基督教団(137) 佐藤優(64) 天皇制(42) 辞書(36) ブログパーツ
外部リンク
ファン
メモ帳
ライフログ
その他のジャンル
画像一覧
|
私は、自分が牧師をしている教会のことだけで精一杯だった。しかし、最初の赴任地の長崎飽之浦教会の時は、いくらか市民運動にもかかわり、教会の社会的な責任も果たそうとしてきた。そして、次の丹波新生教会では、教会の会堂が4つもあるようなところだったので、教会のことしかできなかった。わたしたちは、胡麻や園部にいて、京都まで、JRで1時間はかかった。それも本数が少なかった。そして、日曜日には、胡麻会堂で夕拝が持たれていたので、日曜日午後の京都市内での市民集会などに出ることができなかった。だから、丹波新生教会にいた10年間は、そういう集会にも出られなかったのである。
ここ高石教会に赴任してから、さまざまな集会には出ることができるようになった。 特に、この安倍政権になってからは外に出ることが多くなった。しかし、最近は、年をとりつつあることを感じさせられている。 私は、もともととじこもりがちだった。体が強い方ではなかったし、ある時期から、本をよく読むようになった。 そして、牧師になってからは、説教に集中するようになった。それは、やはり福音というものは、言葉によってしか伝えることができず、信仰義認も説教でしか伝えられないと強く確信しているからである。生活の仕方で、行為で、キリストを証することができる、と信じている人たちは多い。わたしは、それは大事なことではあると思うけれど、やはり、言葉による宣教が、かなり決定的に大事だと思われるのである。イエス・キリスト御自身、その語られることによって、決定的なことをされたのである。 確かに、行為の裏付けがない言葉は空しいものである。しかし、言葉より行為を上位におくならば、聖餐を説教より上位におくカトリックと同じになるのである。 宗教改革で何が本当に議論の中心にあったか、ということが、日本の今の教会でどれだけの説教者たちが理解しているのか、わたしは知らない。しかし、残念ながら、宗教改革者の響きを持った説教を私自身は、ほとんど聞いてこなかった。印刷された著作で、わたしは、日本でもそういう説教をしてきた人たちがいることは知っている。ルター派の教会、改革派の教会がそれなりに働いていることも少しだけ知っている。 しかし、戦争中、日本の教会はバルトやボンへッファーのような牧師を持たなかった。わたしが、バルトやボンへッファーをいまでもよみつづけるのは、そこに宗教改革の響きを聞きとることができるからである。何も、彼らが有名だからではない。 私は、教会政治にもあまり関わって来なかった。教会の牧師をしていても、地区委員長が関の山だった。教区議長になったり、教団の常議員をめざしたりする気にはなれなかった。私は、ベテスダホームをやめて神学校に行く頃には、そうしたものを目指すような気持ちを、自分が経験したことによって粉砕されていた。 大阪には、カトリックで有名な本田哲郎神父がいるが、わたしは、ほとんど彼を特別に尊敬する気になれない。彼なりの働きをしていることは認めるが、宗教改革者たちの言葉を聞いてきたものとしては、神の恩寵についてあまりに語ることが少ないと思う。本田神父は、フランシスコ会の人であるが、結局、フランシスコの精神の枠内にとどまっている。そして、フランシスコには、私は5年間、強く影響を受けたことがあるので、本田神父から、ほとんど何も新しいことを聞くことができない。そして、フランシスコを知っていれば、本田神父のことを知らなくても、別に困りはしないのである。 そして、わたしにとって何よりも明白なのは、わたしのためにキリストが死んでくださったことがなければ、その後、神の力によって、死人の中から復活されたということがなければ、何の希望もないのである。 それに、わたしは、今、世に名を知られていないけれど、立派な人たちがたくさんいることを知っている。教会でもそうである。人知れず、神の喜ばれることをしている人たちがいてこそ、教会は存在し得ている。 私は、昨日、府上征三牧師の葬儀に出て、あらためて思ったのは、葬儀で誰が何を言ったかということはどうでもいい、ということだった。わたしが思っていたのは、死んだら、わたしたちは、否応なしに、神様の前にでなければならない、ということである。もう逃げも隠れもできないのである。葬儀は、まったく人間的なことで、残された者たちはお互いの礼儀は尽くさなければならないが、わたしたちは死の現実ということを真剣に受け止め、いつかは自分も神の御前に出なければならない、ということである。それに比べたら、すべてのことは児戯に等しいということである。 こう書いたからといって、わたしは、神の御前に出ることを恐怖しているわけではない。わたしは、その時こそ、わたしの罪のためにも十字架の上で血を流されたかたを頼りとしているからである。わたしは、あの十字架の上で首をたれられた方を思う時に、そこにわたしの人生のすべてもあると思う。そして、わたしは、愛されていることを確信している。これこそが、わたしの拠り所である。他にどこにもわたしの依り頼むところはない。 そして、わたしは、自分に何の誇りとすることができるものがあるとも思わない。あるのは、恥と罪を犯して来たことばかりである。わたしに誇るものはなにもない。だから、わたしは、葬儀でだれかが自分のことをほめてくれることをほとんど全くというぐらい求めていない。ただ、泣いてくれる人がいればそれでいいと思う。 神はわたしのすべてを知っておられ、わたしの犯して来た罪は隠れようもない。しかし、そういう私のためにも、キリストは来て下さったのである。だから、わたしは、神に愛されていることは信じている。いや、感じていると言えるかもしれない。そして、それがある限り、わたしには既に決定的なものが与えられている、と思う。 いかに多くの人たちが、この厳しくも尊い神の愛を経験しているだろうか。世の多くの尊敬されている人々、有名人も、それを知らないさびしい人たちなのである。 だから、祈ろうと思う。 人気ブログランキング にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2018-01-20 10:25
| 随筆
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||