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また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまで気、決して死なない者がいる。」(マルコ9.1)
はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中にはその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。(マタイ16.28) 「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまてせは決して死なない者がいる。」この話をしてから八日ほどたったとき、イエスがペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に上られた。(ルカ9.27,28) この三つの箇所は、ほぼ同じことを語っていると思われる。その場合、この言葉の次の場面、山上の変貌の場面が、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人だけが立ち会っているので、これが「神の国」の現れを意味していると思われる。ただマタイによる福音書は、最後の再臨をさしているようにしか受け止め難い。マタイにはペンテコステの出来事がないので、こうなっているのかもしれない。 ウェスレーは、これは「ペンテコステの出来事をさしている」とその註解で書いているか、マタイにはあてはまらない。そもそもマタイはペンテコステのことを語らないせいかもしれない。マタイは果たしてペンテコステの出来事を知っていたのだろうか。 ルカは、「神の国」で、イエス・キリストのことをさしている可能性は高い。これは他の福音記者のそうだと思われるが、「神の国」の中心はイエス・キリストであるとおもわれるが、「神の国」は「その民」なしに考えられない、ということも確かである。「神の国」は「神の支配」と翻訳できる原文の言葉である。バシレイア トゥー セウー。「神の支配」が完全に行われているのは、つまり神に完全に従っておられるのは主イエス・キリストだけなので、完全な「神の国」はイエス・キリストだけである。しかし、わたしたちキリストを信じる者たちも、不完全な形であっても、「神の国」に属している。約束の内にそうなのである。 一つ、疑問が出て来た。マルコ、マタイ、ルカのそれぞれの「神の国」理解の違いである。同じであると基本的には考えられるが、ニュアンスの違いはあろう。たとえば、ルカにはこういうところがある。他の福音書はあるだろうか。 ファリサイ派の人々は、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17.20,21) ここに「神の国はあなたがの間にあるのだ」と言われていることについては、私はとりあえず、ここで言われている「神の国」とはイエス御自身のことではないか、と思っているのである。この「神の国はあなたがたの間にあるのだ」という言葉はたぶん、ルカでもマタイでもマルコでもないだろう。このあたりも、もう少し考えてみる必要があろう。 こう書いている内に、聖書学者たちの言う「終末遅延」の問題というのが、どれだけ、新約聖書の著者たちに意識されていたのか、ということがある。ルカによる福音書においても、「終末」に対する緊張はある。「終末遅延」という言葉によって表されているのは、「キリストの再臨はすぐ来ると思われていたが、ある時期から、来るのが遅れていると教会は思うようになった」という意味なのか、それとも「結局、キリストの再臨はないのだ」ということまで「終末遅延」という言葉に含意させようとしているのか。 しかし、最初に書かれたとされるマルコによる福音書でさえ、全世界に福音が宣べ伝えられまでは、キリストは来られないと書かれているのである。 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。(マルコ13.10) ここを読めば、マルコさえも、キリストが再び来られるまで、相当の日々がたつことになると見なしている、ことになる。 いったい、だれが、キリストはすぐ来られる、と書いたというのであろうか。確かに、思い出す箇所がある。確か、「あなたたちがイスラエルを周りきらない内に私は来る」というような言葉である。後で探して、検討してみよう。それにしても、すぐそれに反対する御言葉も思い出されるのである。「その日、その時は子も知らない。ただ父だけか知っておられる」ということで、イエスは、「あっという間に、人の子は再来する」と言われたところがあるのだろうか。私の記憶では、そういう箇所は全くない。 学者たちが、当たり前に前提にしている議論にしても、吟味すれば、もちこたえられないものがあると思われる。謙遜に学者の言うことを聞くことはだいじであろうが、学者も時に前提において大きく間違うことがある。そして、学者自身の信仰というものが、学問的発言に関わらざるを得ないということがある。聖書学は科学ではない。この点、「神を信じていない」と公言している田川建三氏の解釈は、かえって面白いところがある、といえるかもしれない。立場がはっきりしているであるからそうである。ただ、彼の方法の根本的な問題点は、彼の関心の中心はイエスであるが、さすがの彼もイエスが神を信じていたことを認めざるを得ないので、どうしても、この「神を信じているイエス」を受け入れられない、理解できない、ということがあるということである。だから、田川建三氏は、イエスを誤解し続けるしかない。神を信じないで、イエスを理解できるのか、という問題が田川建三氏にはある。 この点、ブルトマンは、神を信じているだろう。「神の子イエス」を信じているかどうかは、わたしにはまだ明らかではない。 にほんブログ村 人気ブログランキング
by kokakusouhachi
| 2017-11-13 10:08
| 随筆
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