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2017年11月4日の(今日の)朝日新聞に100年前11月7日のソビエト革命以後の世界の歴史についてまとめてある。いわゆる10月革命から書いてあるのだが、ロシアの暦では10月ということだったのだろう。興味深い年表が書かれているが、それは後にして、シベリア出兵についてまとめて書いてあるので、書き写させていただく。シベリア出兵については知りたいと思いつつ、今日までほとんど何も知らなかった。
侵略の原型 シベリア出兵 「露内閣倒る」 大阪朝日新聞は、1917年11月9日発行(10日付)の夕刊でロシア革命の発生を報じた。 「『戦争の即時停止』『単独講和』『土地平等分配』等を標榜せる過激派が露国の政権を把握したりとせば……幾多の紛乱の生ずべく露国の暗雲愈々深しといふべきなり」 第一次世界大戦で、ロシアは英仏とともにドイツ・オーストリアと戦っていた。革命政府はこの戦争から手を引く方針だった。 ロシアが離脱すれば、ドイツは英仏との戦争に兵力を集中できる。勝利を危ぶんだ英仏は日本に出兵を求めた。 国内では「ロシアと和を結んだドイツが極東に兵力を送って日本を脅かす」とみる学者らが自衛策としてシベリア出兵を主張した。 一方歌人の与謝野晶子は「『積極的自衛策』の口実に幻惑されてはなりません」とこれを批判した。 日本政府は18年8月、ロシアに残されたチェコソロバキア軍団を救出するという米国提案を受け入れる形で、シベリア出兵を宣言した。日米同数7千人の派兵で米国と合意していたが、実際には日本はピーク時、約7万2千人を動員した。 革命勢力を武力で放逐して親日政権を立て、バイカル湖以東を日本の勢力下におくーー。それが陸軍参謀などのねらいだった。 日本軍は苦闘した。福岡県から出征した松尾勝造は、日記にこう書いた。 「(負傷兵は)手や足が凍傷に罹り、赤色、紫色、黒色と皮膚が変色してゐる。……錐で揉まれるやうな痛さに、足を擦り手を抱へて泣き立てる。慰めやうもない」(19年2月11日) 日本軍を襲うパルチザンと一般の農民は外見上、区別がつかない。松尾は、民家に侵入して「手当たり次第撃ち殺す、突き殺すの阿修羅」(2月13日)を見た。 衛生兵だった黒島伝治は、帰国後に発表した小説「橇」で問いかける。 「どうして、ロシア人を殺しにこんな雪の曠野にまで乗り出してこなければならなかつたか?」 19年半ば以降、英仏米はシベリアから撤兵した。しかし、日本は植民地朝鮮への革命思想の流入防止などを理由に駐兵を続けた。 この間に、ロシア革命と大戦終結に動かされて、民族自決を求める声が世界にあがった。 19年3月、朝鮮で独立運動が起き、インドでは4月、ガンジーが宗主国英国に対する非暴力抵抗運動を始めた。5月には中国・山東省のドイツ権益を日本が継承することに抗議する「五・四運動」が北京で起った。 25年になって日本はソ連と国交を結ぶ一方、治安維持法を成立させて共産主義運動・思想の防圧を図る。サハリン北部を最後に日本軍が撤退したのもこの年だった。 6年後の31年9月、日本軍は中国東北部・柳条湖で南満州鉄道線を爆破、中国への武力侵攻を開始する。シベリア出兵というロシア革命への対応は、その後の大陸侵略の原型であった。 (私の感想) 私の知識の空白の部分で大事な所を少し埋められた。 人気ブログランキング にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2017-11-04 09:45
| 随筆
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