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明日、ある方たちの記念会があるのであるが、テキストとして、テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節を選んだ。そして、説教準備していて、次の19節にも目がいって、前からこの個所が気になっていたので、いろいろ註解書を読むことになった。そのうち、ウェスレーとカルヴァンのものを書き写しておこう。
御霊のある所、かならず燃え上がるものである。御霊は、聖なる愛と喜びと祈りと感謝とに炎々と燃え上がる。善をなすことを怠り、あるいは悪を行なうことによってこの御霊を、自分の内にも他人の内にも消すことなく、またしめらせて弱めてはならない。(ジョン・ウェスレー、翻訳は『ウェスレー著作集2 新約注解下』275頁 新教出版社1979年刊 ) 御霊を消してはいけない この比喩は聖霊の力と本性から得られたものである。なぜなら、理性ほ照らすことが聖霊独自の役目であり、そのゆえに聖霊はわれわれの光と呼ばれるうえからは、適切に言えばわれわれが聖霊の恵みを無にするとき、われわれはこれを消すことになるからである。ここで言われていることと、つぎの項で言われていることとは同じことにすぎないと考えるものもいる。かくてこのひとびとによれば、御霊を消す、ということは預言を軽んずることにほかならない。しかし、御霊はいろいろな面で消されるのであるから、わたくしはこれらふたつのあいだに、一般と特殊のあいだのような区別を立てる。なぜなら、預言を軽んずることは御霊を消すことではあるが、それでも預言を軽んずるものはまた御霊をも消し、毎日ますます成長し、神が彼らの心のうちに点火した火種を保ち、これをおこすべきにもかかわらず、かえってその怠惰によって神の恩恵と賜物を無にするからである。このように御霊を消すなという警めは、それに続くもうひとつの警め、預言を軽んじるなということよりも、より広範囲にわたっている。 最初の句の意味は、あなたがたは神の御霊によって照らされている、この光をあなたの忘恩にによって、失ってはならないと気をつけているのである。これはきわめて有益な警めである。なぜなら、一度この光に照らされたものも、この尊い神の賜物から投げ出されるようになったり、あるいはその目を閉じて、世の虚栄に引きずりこまれるままになれば、このような人びとは恐ろしい盲目に襲われ、他に対してよい例とになる。それゆえ、われわれとしては神の光がそれによってわれわれの心のうちで消えるようになる怠惰を警戒しなければならない。それにまた、このことから人間に与えられた光を消すのも、あるいはこれを守るのも人間の心にうちにある自由なのだということになる。それはこのようにして、人間が恩恵の効力を減じ、赤裸々な恣意の能力や力をほめたたえ、まちがった論拠を与えないためである。なぜなら、神は選びをなすに当たって効果を発揮し、選ばれたものに光を与えるばかりでなく、これを見えるようにさせ、かつ、ずっと見開かせておくけれども、それでももなお肉はつねに怠惰に落ちいりやすいから、励ましの刺激が必要である。しかし神は聖パウロの口を通して命じているところのことを自らそのなかで成就しているのである。一方、われわれの努めは、主に対し主みずからが点じたランプに油を与え、その灯心をきれいにし、これを増やすことをさえ、願うことである。(ジャン・カルヴァン 『新約聖書註解11 』230頁 新教出版社1970年刊) ![]() 人気ブログランキング ![]() にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2017-08-18 14:16
| 随筆
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