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さきほど、「聖霊の力におけるキリスト者」という記事を書いた後、新約聖書の最初から最後まで、「霊」「聖霊」という言葉が使われているところを、なるべく見落とさないようにして読み返した。厳密ではなく、ざっとである。そうすると「聖霊」あるいは「霊」という言葉が出て来ないのは、新約聖書では「ヨハネによる第二の手紙」「ヨハネによる第三の手紙」だけであることがわかった。しかし、この二つの手紙の著者はまず「第一の手紙」の著者と同じなので、第二の手紙、第三の手紙に「聖霊」がでてこなくても、ヨハネが聖霊を知らなかったことにはならない。この二つの手紙に「聖霊」が出て来ないのは、この二つの手紙がきわめて短いせいだろう。そう考えると、新約聖書のすべての文書は聖霊について知っていたことになり、まさにペンテコステを前提に新約聖書は成り立っていると言うことができる。聖霊なしに新約聖書はない。それはキリストの復活なしに、新約聖書は存在しないのと同じである。
わたしは、新約聖書を最初から最後まで、聖霊という言葉のところに立ち止まりながら、読み通してみて、新約聖書に聖霊の充満していることを感じた。 また「聖霊」は、わたしたちに「アバ、父よ」と言わしめる、「御子の霊」「キリストの霊」であることを確認させられた。聖霊は御子の霊であり、キリストの霊である。キリストの復活以後、わたしたちに与えられるようになったのは、この「聖霊」である。この「聖霊」というのは、聖霊は「御子の霊」「キリストの霊」であるだけではなく、「父の霊」でもあるからである。 共観福音書に登場する聖霊は、基本的に「父の霊」であるように思われる。吟味を必要とするが。 ヨハネによる福音書では、キリストの復活まで、聖霊が登場しない。癒し、奇跡においても、「聖霊の働き」について言及されない。これはヨハネがはっきり意識してそうしているようである。 全体として言えることは、バルトは「聖霊」を「啓示の霊」「信仰の霊」を中心として見ていて、奇跡・癒しをされる方として、ほとんど取り上げていない。これは、バルトが説教者として困窮したという経験に由来するものだろう。バルトは、ブルームハルトにおける場合のように、メットリンゲンでのゴットリービンの身に起こったことに立ち会っていないことが原因しているように思われる。共観福音書においては、キリストは聖霊の力によって癒しをおこなわれているのである。キリストの復活以前に、キリストのマリアの胎内における受胎においても、キリストがされた癒しにおいても、聖霊の働きが、共観福音書には書かれている。しかし、ヨハネによる福音書では、言の受肉においても、キリストの癒しにおいても、聖霊の働きは書かれていない。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-12-23 11:55
| 随筆
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