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これは、ルターの言葉として知られてきたが、ルターの言葉と確認されていない。しかし、長い間、わたしにとって励ましの言葉になっていたということはある。
一体、イエス・キリストが再び来られる世の終わりの時に向けて、どのように生きるのかということは一つの問題ではある。私たちは、特に戦後まもなく生まれた世代を念頭に私は書いているのだが、ベルリンの壁が取り除かれるまで、核戦争の恐怖を免れることはできなかった。 中学2年生の時、キューバ危機があった。その時、我が家でも異常な緊迫した空気になったのを私は覚えている。そして、その前にも、水爆のビキニ環礁での実験、第5福竜丸の死の灰のこと、その後論じられた「核の冬」のこと、中距離核ミサイルのヨーロッパへの配備の時、オランダの教会などが発表した宣言。わたしたちの世界は、いつ核戦争になって終わりになるかもしれないという危機に直面してきたのである。私の若い時の課題は「このいつ終わりになるかわからない世界において、いかにすれば生きられるか。どのようにして希望をいだくことができるか」であった。それほど、生きるのに困難を覚えていた。29歳の時にキリストを信じると告白してから、次第に私の心は明るくなってきたが、暗い気持ちで青年時代を過ごしたのであった。 今は、年をとってきたので、むしろどのように死ぬかということが問題になり始めているが、若い人たちのことを考えれば、世界が平和であることを望まずにはいられない。「キューバ危機」について知れば知るほど、あの時、世界はまさに全面核戦争になる直前までいったということがわかってきた。しかし、あの時は、ソビエトはフルシュチョフが首相で、アメリカはケネディが大統領だった。 もし、プーチンとトランプという組み合わせでキューバ危機と同じような危機に直面したら、ほとんど絶望的だろう。しかし、もちろん、現在は、あの当時とまるで違うところもある。しかし、プーチンも核兵器を使うことを示唆したことがある。 私は、ヒラリー・クリントンのことは良く知らないし、トランプのことも知らない。しかし、核戦争というただ一点で、トランプが大統領にならないことを祈っている。だから、ヒラリーが大統領になるように祈るとは書かなかったのである。わたし自身の判断によれば、サンダースが大統領になれば一番よかったのかもしれない、ということがある。しかし、これは、残念ながら実現できないと判断して、サンダース自身も立候補を途中でやめたのではなかったか。 これは、ボンへッファーの言ったことであるが、「わたしたちは悪と悪の間で選ばざるを得ない」時がある。明瞭な善と明瞭な悪との間で選ぶという機会というものは滅多にない、ほとんどない。 最終的に、どのように生きるのが「責任的に生きることになるのか」ということが、問題となる。そして、わたしたちは絶えず、あやまちを犯しがちなのである。 とにかく、最近、タカ派的な人たちが世界の指導者たちに増えてきて、憂慮している。そして、やはり第二次世界大戦後70年たち、戦争の悲惨さを思う人たちが、減ってきているのだろうと思う。 身近なところでは、日本で、戦争の記憶が風化して、戦争に対する歯止めがなくなってきたということは、ここ20年ぐらい前から言われてきていたが、どうやらそのことは日本だけに限ったことではないと思わされている。 一番驚いたのは、イギリスのEU離脱の決意をイギリス国民がしたことで、イギリス国民の多くがなぜ、EUができるようになったのか理解していないらしいことに驚いたのである。私の理解では、EUは二度とヨーロッパ、とくにドイツから世界大戦を起こさないためにできたものである。イギリス国民は、ナチスの時代、ドイツから激しい空襲を経験していて、そのことはよくわかっていると思っていた。イギリスがなんとかもちこたえ、アメリカが参戦して、ナチス・ドイツに立ち向かうために、ノルマンディー上陸作戦を敢行したことはイギリス国民はよくしっているはずではなかったか。ダンケルクのことも覚えているはずではなかったか。戦後70年というのは、ただ日本にだけ訪れたのではなく、世界中に訪れたのだということを思わされるようになっている。 ただ、世界の平和のために祈らずにはいられないし、世界が、そして、自分の周りの世界が音をたてて崩れようとしている時、自分の責任は何か、ということはキリスト者の一人一人が考えなければならないことだし、教会もまた判断しなければならない時がある。 キリストご自身も、世界の終わりが来て、あたらしい世界がやってくることを預言されているが、その前にも、わたしたちキリスト者は、「主の祈り」を祈りながら前進するしか生きる道はない。人間はだれもがいずれは死ぬと言って、医者にかからないのは、よほど偏屈な人であろう。限られた命であっても、その命がどうでもいいとはならない。 わたしは、キリストを待ち望んでいるが、「隣人を自分のように愛しなさい」と、どのような時にもキリストに言われている、ということはあるのである。 わたしが若い時より、はるかに困難な時代に入りつつある。教会にも小さなこどもたちがやってきているし、新しく生まれたこどもたちもいる。その子たちのためにも、世界の平和のために祈らざるを得ない。「愛がなければ、無に等しい」のである。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-11-08 10:47
| 随筆
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