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トレルチは「キリスト教の絶対性」を言ったけれど、バルトは「神の言葉の絶対性」を言ったと言えよう。神の言葉は神の言葉自身の力によって、語りかけられた者に絶対的に臨むとしても、それは傍観者的な態度で、他の人に立証できるようなことではない。哲学なのではないから。それに、哲学にもそんなことは出来ないとカントは言ったのである。ただ「神の言葉の絶対性」は証しすることができるだけである。
バルトは、しかし、「神の言葉の絶対性」などと表現などはしなかった。 キリスト教が他の宗教と比べて絶対的優位に立つなどとは、だれも立証できないだろうに、なぜそんなことを目指したのか。自分達の安心のため? しかし、死すべき人間がどうして絶対性を主張できようか。神が、神の言葉をもってわたしたち一人一人に迫り、ご自分の絶対性をその人に信じさせられるということがなければ、どうして人は「絶対性」など口にすることができるだろうか。 しかし、考えようによっては、バルトはアンセルムスの「知解を求める信仰」は、神の存在を証明しており、神の絶対性を証明していると、とらえることができるかもしれない。しかし、「それ以上偉大なものが考えることができない何か」が、いかなる存在か、この「定義」からだけでは、イエス・キリストによって啓示されている神について語ることができることは、そう多くはないように思われる。聖書に聞かなければならないのだと思われる。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-09-13 20:36
| 随筆
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