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思いの外、スムーズに読み進められるので驚いている。202頁の内、85頁まで来た。熊野義孝全集第5巻に載せられているものを読んでいる。
しかし、次第に読みやすくなるにつれて、言葉は悪いが、底の浅さを感じ始めている。それは、これを書いた時、熊野義孝は34才ぐらいで、私は今、68才ということもあろう。 しかし、それだけではないと思われる。私は今、バルトの『教会教義学』の「神の言葉の教説」の「聖書」論のところを読んでいるのであるが、熊野義孝の文章の背後に聖書を感じる度合いが、バルトの場合より小さく感じるということがあるのだ、と思う。 それは、バルトが『ローマの信徒への手紙』を講解することを出発点としていることと、熊野義孝にはそのようなところがないことと関係しているだろう。バルトの神学は説教者・牧師のためのものだった。第一次世界大戦に遭遇して、今までのように説教できなくなったバルトが困り果てた末に、取り組んだのが『ローマの信徒への手紙』だったのである。バルトは、説教する立場で困ってしまったから、聖書に取り組んだのだった。そして、いわゆる「弁証法神学」と呼ばれるものが出て来た。しかし、この「弁証法神学」という呼び方をバルトは「傍観者」的な呼び方だと、とこかで言っている。 熊野義孝は、そういう出発をしていない。先生の植村正久から「終末論」に対する関心を持つような刺激を受けたのが始まりのようである。熊野義孝自身が『終末論と歴史哲学』の「後記」にそう書いている。熊野義孝は『終末論と歴史哲学』の前に、弁証法神学についての論文を書き、それで自分の思うところを、今度は書く、と言って、この著作をものしたのである。この著作の冒頭、著者はこう書いている。 先に弁証法神学の概観的な叙述を試みた時、私は既にこの派の神学が未解決の問題として負うている諸問題を一層発展させてみようと心に期していた。言うまでもなく、かかる仕事はもはや一つの学説の紹介や解説の領域を超えて、筆者自身の思想の展開を強く要求するものであろう。私の元来の意図はここに在ったのである。(上掲 3頁) 熊野義孝の言う「終末」とは「終末ケア」などに通じる「死」のことである。しかし、これは、聖書が言っている、「終末論」とは違うのではないか、内村鑑三の終末論の方が聖書的ではないか、というのが、わたしが熊野義孝に対する持続して抱いている疑念である。 加藤常昭氏などは熊野義孝は「神の言葉の神学」だというけれど、本当にそうだろうか。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-09-08 11:33
| 随筆
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