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「教義学の規準としての神の言葉」としたのか。第一章のことである。
宗教改革者たちは、「聖書のみ、信仰義認、万人祭司」を彼らの議論の基礎とした。宗教改革の三大原理というのが、これである。 バルトは、彼の『教会教義学』を「聖書論」から始めないで「神の言葉論」から始めたのである。これは、宗教改革後400年もたって、「聖書論」だけではすまなくなっていたからである。彼は「聖書」を「神の言葉の三形態」のうちの一つとした。「啓示された神の言葉、書かれた神の言葉、宣教された神の言葉」という三つの「神の言葉の形態」があるとして、「書かれた神の言葉である聖書」だけを論じないで、その前に「神の啓示」を置き、その後に「説教」を置いたのである。啓示が、根源的な「神の言葉」であり、説教が、「神の言葉」となることが問われたのである。そして、それは、書かれた「神の言葉」を通して、神が語られることによって、起きるのである。 バルトは、教義学の本論に入る前に、「聖書論」ではなく「神の言葉論」を論じた。そうしないと、現代においては、宗教改革者たちに連なることができなくなっていたからである。そして「神の言葉論」の中で「聖書論」が論じられているのである。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-08-13 10:49
| 随筆
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