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このところ、西田哲学に時々、心が向いていたので、晩年の著作の一つ『デカルト哲学について』を再読した。昨夜のことである。
思いがけず、よく理解できるようになっているのを感じた。こう書くと、うぬぼれめいてくるが、西田哲学は、私がキリスト者であるため、最後の最後のところで、受け入れがたいものを感じていたのである。たとえば、この『デカルト哲学について』でも道元の名前が出て来て、『正法眼蔵』の中の有名な一句が出て来て、それを中心にして論じられているのが感じられるのである。西田幾多郎において、参禅の経験は、かなり中核にあるのではないか。 西田哲学をどうとらえるかは、日本のキリスト者にとって、一つの課題であるだろう。それは、たとえば滝沢克己のような人が体現している。 しかし、バルトは、「イエス・キリストの御名」にこそこだわるのである。そして、私は、バルトの態度こそ、キリスト者のとるべき態度に思われるのである。 それでも、私が日本人であり、わたしが、説教者として語りかけるのも多くは日本人であることを考えると、西田哲学は、無視できない。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-08-02 10:09
| 随筆
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