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今朝、私は、「神義論」にあまりにとらわれてきたのかもしれないと思った。それは、若い時に、イヴァン・カラマーゾフの神義論に圧倒され、イヴァンの神否定の議論にどのように答えて神を信じるか、ということがわたしの問題になってしまったということがある。
わたしは、かなりドストエフスキーの問題提起に方向づけられてきた、と思う。そして、バルトの「神の恵みの選び」の教説がイヴァンに対する決定的な反論になっていると私は、思った。そして、神学的な探求は、一応のめどがついたのである。 しかし、バルトは、「神の言葉」を問うたのであることが、今ようやく意識にのぼってきている。 そして、バルトは「神の啓示」について論じる時も、「神の言葉」という標題のもとに「神の啓示」を論じているのである。その時、バルトの目の前には聖書があるのである。 世に様々な「神の啓示」と称するものがあるだろうが、バルトは聖書を手にもって離さなかったのであり、そこから神を言葉を聞きとり、イエス・キリストは神の啓示であると信じたのである。そして、イエス・キリストこそ、神の啓示であるところに固くとどまって、そこから聞き得ることを聞こうとして、耳を澄ましたのである。 ![]() 人気ブログランキングへ ![]() にほんブログ村 ■
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by kokakusouhachi
| 2016-07-25 09:33
| 随筆
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