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このことは、前にも書いたが、これなしに前進できない気がしている。「主の祈り」は羅針盤のように、前進する方向を指し示してくれる。
そして、わたしたちは、主によって、前進する力を与えられる。前進するための祈願でもある。 ネビル・シュートの小説『渚にて』の最後のところで、モイラが、毒薬を入れたブランデーを飲み乾す場面がある。モイラは、女主人公の名前なのであるが、恋人の潜水艦長が、潜水艦で出発するのを見送りながら、そうするのである。舞台はオーストラリアで、全世界で核戦争が起きて、ただオーストラリアの人々だけが生き延びていて、その人たちも、次第に近づいて来る放射能汚染物質(死の灰)に脅かされているのだが、恐ろしいほど、人々は日常生活を何事もないように過ごしているのである。わたしが一番最初に、この小説を読んで、戦慄を覚えたのは、この何事もないかのように日常生活を続けていく人たちの姿である。わたしは、その小説を読んでのち、数十年生きてきたが、今では人間というものは、そして生きているものは、そのように生きるものである、と思うようになった。 それにしても、モイラが最後のところで「主のいのり」を唱えて死ぬことは、まだクリスチャンにも、何か異常な感動を覚えたものである。「主の祈り」は、将来イエス・キリストが来られ、新しい義の住む天と地を待望しつつ、唱える祈りである。「主よ、来たり給え」と祈り始めて、わたしは生きてきた。再びイエス・キリストが来てくださることを信じ、待ち望んで。この希望なしに私は生きてくることができなかった。 『渚にて』の最後の場面は、ある意味で実に矛盾しているところがある。それは、もうほとんど全人類が死滅しようという時に祈られているのである。そして、その祈りを祈った人は、その直後自殺するのである。なんと矛盾した行動であることか。 ある時、私は、作者のネビル・シュートが小説を書いた数年後に死んだことを知った。その時、わたしは、あんな小説を書いた人が長生きできるわけがない、というような感想を抱いたものである。 そして、今朝は、新しいことを思った。モイラが自殺する直前、「主のいのり」を祈ったのは、作者の祈りだったのだ、ということである。モイラは、小説の最後で自殺した。しかし、作者は、小説を書いた後も生き続けたのである。 ネビル・シュートが、あの小説を書いた後、どのような人生を送ったのか、私は知らない。しかし、それは、「主の祈り」を祈る生活ではなかったのだろうか。それとも、彼は、「主のいのり」を祈らずに死んだか。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-07-07 09:04
| 随筆
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