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今日は、連休のせいもあって、礼拝出席がかなり多かった。今日の説教を載せておく。
テキストは、ヨハネによる福音書1章43~51節。これは、昨日のブログに全文載せておいた。 メシアとの出会い イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない、」(47節) (お集りの皆さん)、人はどのようにして神を信じるようになるのでしょうか。人はどのようにして神を知り、神を愛するようになるのでしょうか。新約聖書のはっきりした答えは、こうです。「イエス・キリストに出会い、イエス・キリストを信じることによってて、である。」 わたしたちは、たとえば、そこにある法則を見出して、その法則から神を知る、ということはできません。E=mcの二乗 という式を見出しても、神様を知ることはできません。神様のなさっている業の一端を知ることができるでしょうが、神様ご自身を見出すことはできません。 それならば、考えること、思考することによって、神を見い出すことができるでしょうか。それができると言った人たちがいます。アリストテレスという古代ギリシャの哲学者が『形而上学』という書物の中で、唯一の神の存在を論じています。また、ずっと後のことですが、デカルトというフランスの哲学者が、『省察』という論文で、哲学的に「神の存在」を証明しています。ところが、カントという哲学者が出て来て、アリストテレスやデカルトの「神の存在証明」は、証明になっていない、と言いました。彼は、有名な『純粋理性批判』の中で、そのことを論じていて、結局、神の存在を哲学的に証明できない、としたのです。そして、カントが出てからは、哲学的に神の存在証明はできない、ということが反論の余地がないものとして、哲学の世界では定着しました。しかし、一つ、誤解のないように言っておかなければならないことですが、カントは、哲学的に証明できないと言っただけで、「神は存在しない」と言ったわけでもありません。哲学では、神は存在するとも、しないとも言えないと言ったのです。 こういった議論が、ヨーロッパではされてきたのですが、わたしたちがひとたび、聖書をひもときますと、「神様は存在するか、しないか」というような議論は、ほとんど全く出て来ないのです。旧約聖書の冒頭、こう書かれています。 初めに、神は天地を創造された。 こういう一行がありまして、神様が天地創造の業をされたことが書いてあって、神様が存在するとか、しないとか一切、議論はありません。もううほとんど自明のこととして、神様のされた業のことや、神様が語られたことが書かれていて、哲学的な議論はでてきません。もう、「神様を信じるか、どうか」ということだけが、前面にでてきます。 ただ、旧約聖書には、次のような非常に印象的な言葉があります。 神を知らぬ者は心に言う。 「神などない」と。 これは、詩編53篇2節にあります。 それで、これからお話しすることが肝心なことです。一体、わたしたちは、どのようにして神を知ることになるのか、神を信じるようになるのか、ということです。 このことについては、プロテスタント教会は基本的に一致しています。わたしたちが、神を知るのは聖書による、イエス・キリストによる、というものです。わたしたちは、聖書を読むことによって、神と出会う、キリストと出会うことによって、神と出会う、ということです。 聖書によらなければ、神を知ることができない。また、イエス・キリストを信じることなしに、本当には神を知ることができない、ということです。どんなに自然を研究をし、哲学しても、わたしたちは、神を知ることはできない。人間の一切の努力は、神を知ることにおいて、無力だということです。ただ、神の言葉を聞くことによって、わたしたちは神を知る。神から、人間への道はあるけれど、人間から神に至る道はない、ということです。 別の言い方をしますと、ある日、ある時に、神様がその人に語りかけられる、という出来事が起きなければ、わたしたちは神を信じることはできません。そこに「出会い」というものがなければならない。神様がその人に向かって語りかけられ、その人が神様の語られることに耳を傾けるということがなければならないのです。それ以外の仕方で、わたしたちは、神を知ることはできません。それは、人格的な出会いが必要だということです。ある時、これはもう神様の声だとしか言えないような言葉が、まさに自分に向かって語られた、という経験がなければ、わたしたちは神を信じることができません。そして、こういうこともあるのです。わたしたちの心には、神様に逆らうものがあって、神様が自分に語られても、それを受け入れたくない、ということがあるのです。それで、神の声を拒絶しようとするところがある。神様は、それでも、諦めないで、執拗にわたしたちに語りかけられて、ついには、わたしたちはそれを聞かざるを得なくなるようにさせられる。ついには神様の語りかけに応えて、出発するということが起きるのです。 最初は、まだ聖書のない時代がありました。その時でも、神が人に語りかけられた、ということはありました。そのことを、わたしたちはアブラハムの場合に知ることができます。その時には、まだ聖書はなかった。神様は聖書を用いることなしに、直接にアブラハムに語られたのでした。そのようなことはモーセにも起こりました。しかし、聖書はなかったものの、神がアブラハムに語りかけられたこと、アブラハムがどのように答えたかは、言い伝えによって、人々に伝えられていったのです。やがて、アブラハムに語られた神の言葉、モーセに語られた神の言葉が、文書にされて残されるようになってきました。それが聖書の始まりです。そして、エリヤやイザヤやエレミヤといった預言者たちが、神から聞いた言葉を人々に伝え、それが書き残されてきました。それは何百年もかけて、そのことがなされてきたのです。 神から、こういう言葉を聞いたということを書き記すこともされたのです。アブラハムの場合、自分で書き残すということはなかったと思われますが、自分で、神様から聞いた言葉を書き残した預言者たちもいます。 そして、それが後にまとめられたものが、旧約聖書です。新約聖書は、イエス・キリストを通して聞かれた、神の言葉が書き記されています。新約聖書にある「ヘブライ人への手紙」の冒頭には、次のようなことが書かれています。 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。 この「御子」とは、言うまでもなく、イエス・キリストのことです。 ![]() 人気ブログランキングへ ![]() にほんブログ村 ■
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by kokakusouhachi
| 2016-05-01 21:59
| 随筆
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