最新の記事
以前の記事
カテゴリ
記事ランキング
ブログジャンル
最新のコメント
フォロー中のブログ
風のたよりー佐藤かずよし 日本がアブナイ! 広島瀬戸内新聞ニュース(... そうはちのコラム そうはちのコラム2 御言葉をください 命最優先 大山弘一のブログ 放射能に向き合う日々 世に倦む日日 社会の動向・住まいの設計 最新のトラックバック
検索
タグ
キリスト・イエス(3643)
教会(3000) 安倍晋三(2024) 森友学園(1566) 加計学園(1390) 共謀罪(159) 日本基督教団(137) 佐藤優(64) 天皇制(42) 辞書(36) ブログパーツ
外部リンク
ファン
メモ帳
ライフログ
その他のジャンル
画像一覧
|
私は「育ちにくい」と書いているのであって、「育たない」と書いていない。
昨日、『望月光の古文教室 古典文法篇』という古文の参考書を手に入れ、日本語の古文の文法にざっと目を通してみてまず気が付いたことは、日本語は主語が曖昧である、ということである。今、ヘブル語とギリシャ語では、人称によって、動詞の変化が多様で、それを覚えるのが大変である。しかし、「彼」「彼女」「あなた(男)」「あなた(女)」「わたし」「かれら・彼女ら」「あなたたち(男)」「あなたたち(女)」「わたしたち」と人称によって、ヘブル語は動詞の変化がかわり、その上に時称、話態で変化する。 日本語では、人称によって、ほとんど動詞の変化がないように思われる。ところが、話す相手によって、きわめて複雑な尊敬の念を表す言葉が発達している。敬語といわれるものである。 問題は、ここで森有正が言うところの「二項方式」が生ずることである。相手に合わせた「わたし」にわたしがなり、「あなた-あなた」の関係になり、「わたし」が独立しない。「わたし」というものが確立しないし、三人称も確立しない、というのである。本質的に「社会」というものができにくい言語構造になっているというのである。 確かに、古文を読んで、誰が主語なのかよくわからないということがある。これは、おそらく日本人の生き方に根差していると思われる。私小説が発達する基盤もここにあろう。また、日本文学にドラマが少ないのも、ここに関係しているのではないか。 昨日、森有正のものを久しぶりに読んで「二項方式」についてあらためて考えさせられた。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-04-08 10:44
| 随筆
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||