最新の記事
以前の記事
カテゴリ
記事ランキング
ブログジャンル
最新のコメント
フォロー中のブログ
風のたよりー佐藤かずよし 日本がアブナイ! 広島瀬戸内新聞ニュース(... そうはちのコラム そうはちのコラム2 御言葉をください 命最優先 大山弘一のブログ 放射能に向き合う日々 世に倦む日日 社会の動向・住まいの設計 最新のトラックバック
検索
タグ
キリスト・イエス(3512)
教会(2870) 安倍晋三(2024) 森友学園(1566) 加計学園(1390) 共謀罪(159) 日本基督教団(137) 佐藤優(64) 天皇制(42) 辞書(36) ブログパーツ
外部リンク
ファン
メモ帳
ライフログ
その他のジャンル
画像一覧
|
昨夜のクリスマス礼拝で、初めて『フィリピの信徒への手紙』のいわゆる「キリスト賛歌」のところから説教したのだが、最初ぼんやり想定していたのとは違った説教になってしまった。最初、想定していた内容は、いわゆる「受肉」について説教しようと思い、「キリスト賛歌」から説教しようとしてみて、どうもうまく行かない。
それでかなり書き直して、テキストに忠実な説教を試みたのである。そして、この「キリスト賛歌」は「受肉」がテーマというより、むしろ「従順」がテーマで、パウロは、この「キリスト賛歌」を倫理的な文脈で用いているのがわかった。救済論的でさえないのである。これはキリストにならって、従順であれ、という呼びかけなのである。 そして、説教の原稿を手に入れながら、わたしがあらためて思ったのは、「この手紙は獄中書簡なのだ。」ということである。もちろん、この手紙が獄中で書かれたものであることは、よく承知していた。そして、パウロは、この時、死を覚悟していた面があることも知っていた。 ところが、今度、説教原稿を書きながら、パウロは、この「キリスト賛歌」を書きながら、パウロは自分の死も考えていたということを思い始めたのである。 「キリスト賛歌」は2章6~11節であるが、17節に、 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行なう際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。 そして、「キリスト賛歌」の前の1章24節にこうある。 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 とあるのである。この『フィリピの信徒への手紙』は、牢獄の中で、自分はひょっとしたら死刑になるかもしれない、というおそれを感じながら、パウロが書いたものなのである。その中に、ならい覚えていた「キリスト賛歌」を思い出して、「フィリピの信徒」の人たちに、「従順」であるように、語りかけているのである。だからこそ、ここでキリストの死は救済論的に語られていないのである。 こんなことを思ったのは、最近、またボンへッファーについての書物を読み、ボンへッファーの「獄中書簡」を少し読み直していたせいかもしれない。 (後記) 「キリスト賛歌」は、12月19日の記事にある。 ![]() 人気ブログランキングへ ![]() にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2015-12-25 23:26
| 随筆
|
Trackback(3055)
|
Comments(0)
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
|
ファン申請 |
||