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タイトルの部分をこれで、三度読み直す。彼の解釈の中心部分は分かって来た。こまかい細部がわかるのは、何度か読み直さなければなるまい。そのための時間はどうもなさそうである。カルヴァンに異論を唱え、バルトにも異論を唱える。
「高く上げられる」ということは「復活」を意味しているか、どうかということ。 バルトの理解では、「神の子の異郷への道」は「人の子の高挙」と一つなのであるから、そこで理解がかわって来るのだろう。 佐竹明氏には重要なことを教えてもらった。それはパウロは、「十字架」と「復活」を並置して、書いている箇所は一か所もない、ということで、示されている聖書の個所を調べてみると、まさにその通りである。「十字架と復活」と一息でよく言う人たちがいるが、それは少なくともパウロはしない表現法であった。気を付けよう。わたし自身もそのような言い方をしてきたかもしれない。「十字架と復活」と並記するような言い方は、実は、何か大事なことを聞き落しているからこそ出来る表現なのかもしれない。イデオロギー化した福音? 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2015-12-21 10:33
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