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新共同訳を引用すると
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ5.6) しかし、この「愛の実践を伴う信仰」というのは、あまり良くない訳ではなかろうか。「愛によって働く信仰」となっていた口語訳の方がギリシャ語本文に即しているのではないか。ここではカトリック教会の意向が強く反映されてしまったのではないか。確かなことはわからない。ただ、口語訳では「愛」は信仰から出て来るという面が強く出されているように思われる。ところが「愛の実践を伴う信仰」となると、「愛」と「信仰」はもともと違うものであるという感じになっていないだろうか。宗教改革の時に「信仰と愛の行いによって義とされる」という主張がルターたちに対して上げられたと覚えているが、それを思い出させる翻訳ではないか。 むしろ、「愛」は「信仰の働き」なのではないか。信仰と愛は、別の源をもっているわけではない。信仰も愛も一つの源を持っている。それは、イエス・キリストにおける神である。端的に言えば「神」である。神から信仰も愛も来る。信仰の源である神。愛の源である神。平和の源である神。希望の源である神。 戦争とテロが力を振るい出したように見える世界にあって、イエス・キリストを信じる群れは、つまり教会ということだが、この群れは「愛によって働く信仰」によって歩む他ないのではないか。 わたしは、その「愛によって働く信仰」という言葉をキーワードにして、パウロの手紙を読み直してみたいと思うようになった。コリントの信徒への手紙一の第13章の「愛の賛歌」のところも、ローマの信徒への手紙12章9節から13章10節までのところもそうである。聖霊の実として、「愛」が一番最初に置かれていることも忘れまい。ガラテヤ5.22。 イエスの信仰、イエスの愛、イエスの希望。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2015-11-21 10:46
| 随筆
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