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ここから出発しようと思う。つまり、
言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としてであって、恵みと真理に満ちていた。(ヨハネによる福音書1章14節) イエス・キリストは、神が人となられた方である、ということ。神が人と変化されたということではなく、神が神であられるままで、人となられた、ということである。これは、多くの人にとって信じがたいことであり、理解しがたいことであるし、ある人々にとっては神話ということになろう。しかし、わたしはここに固く立ちたいし、それを今までよりは、力強く、もっとものおじせずに語ろうと思う。今まで、わたしはそれを人前で力強く語って来なかったし、説教でも少しばかり遠慮がちに語って来たのである。お前は、そんなことを信じているのかと世の賢い人々に言われたくなかったのである。それに実際、わたしも、全宇宙を造られたような神が、地球の人間だけ特別扱いして、その人間になられたというようなことがあるだろうか、と考えてしまうところもあったのである。それに、わたしたちは今や何十億年も前に宇宙が誕生したことを知っているし、その長い気の遠くなるような時間の中では2000年前にこられたイエス・キリストが、その人となられた神である、というようなことを信じるということは、あまりに地球の人間中心の思想になりはしないか、とひそかに考えるところもあったのである。 これらのことを今まで私は口に出してこなかったが、そう考えてしまうところがあったのである。 もちろん、ダーウィンの進化論の問題もある。「信仰と科学」の問題は、やはり私にも問題であるのである。 とはいえ、私はすでに中学生のときには、天文学に興味を持っていたし、津山高専で学んでいた時には、天文部をつくることまでしていたので、「キリスト教」あるいは「福音」に出会う前に、今日の自然科学には、大きな関心を持っていた。その点では内村鑑三が、早い時点で「進化論」に出会っておりながら、最後にはキリストの再臨を信じるまでに至っていたことと共通する。わたしもイエス・キリストが再び来られることを信じているし、待ち望んでもいる。 わたしは、イエス・キリストが人であるが、「神の子」あるいは「神」であると信じるまでは、教会に行って洗礼を受けることはなかった。洗礼を受ける前の一番の問題は、イエスが神でありたもう ことを最後のところで信じられなかった。ところが。28才の時、強い信仰的な経験をした後、キルケゴールの『イエスの招き(キリスト教の修練)』を読んでいる時に、わたしはイエス・キリストを「神の子」と信じるようになって、教会に行って洗礼を受けたのである。 まことにイエス・キリストという方は驚くべき方である。人の子でありながら神の子であるというのは、わたしたち人間の知恵では測りがたいことである。多くの人たちが、「イエスは神の子である」とどうも聖書にに書いてあると気づくようになり、そこで立ち止まり、信じる人たちもいれば、それ以上、先に進めない人もいるのである。ここには、一つの跳躍・飛躍があって、言語を絶するものがある。ただ聖霊の働きだけが、このつまずきを乗り越えさせると聖書は書いている。 わたしはキルケゴールの書いているものを読みながら、この跳躍をなした。別の言い方をすれば、キルケゴールの長大な説教を聞いている内に、イエスは神の子である、と信じた。ここで言うキルケゴールの長大な説教というのは『イエスの招き(キリスト教の修練)』のことである。 ところで、アンセルムスは『なにゆえ神は人となられたか』、『クール・デウス・ホモ』という有名な贖罪論の論文を書いた。これは、当時、イスラーム世界に対峙していたキリスト教会において、イスラームたちが、教会がイエス・キリストは神であると言っていることに対して、根本的に否定的であったことに対して、論駁を試みた、という側面があろう。アンセルムスには、イスラームの読者が想定されていたであろう。「神が人となられた」ということは、マホメットたちには信じられないことであったろうし、否定すべきことであったろう。それは神を冒涜することではないか。 ところで、ここで一つのことを思う。使徒パウロは、イエスのことを「神の子」と表現することはあっても、イエスは「神」であると表現することはなかったと思われる。ただ一か所、新共同訳聖書でキリストのことを「神」と表現しているところがある。 先祖たちも彼らのものであり、肉よればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。(ローマの信徒への手紙9章5節) ここは、1955年の口語訳では また父祖たちも彼らのものであり、肉によれはキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。 となっている。こちらの方が正しいのではないか、と私は思っている。というのは、私の考えだが、使徒パウロは「父である神とイエス・キリストから」という定型的な表現をとっており、キリストを神であると他のところでは、用心していわず、「神の子」という表現がほとんどすべてではないかと判断されるからである。宗教改革者カルヴァンは、『ローマ書註解』で、ここのところを新共同訳と同じく「キリストは神」としているが、わたしは口語訳の方をとりたい。バルトの『ロマ書講解』で、バルトがどのように翻訳しているか、いままで注意したことはない。いずれにせよ、パウロは、「イエスは神の子である」と表現することは多くあったとしても、「神」と言ったり、書いたりしたことはなかったのではないか。ついでに書いておけば、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊という三位一体的な表現は、既にパウロにあり、パウロは三位一体なる神を信じていたと思う。 イエス・キリストのことを「神の子」とではなく「神」とはっきり表現しているのは、ヨハネによる福音書ではないか、と思われる。冒頭のロゴス賛歌のところで、既にヨハネはこう書いている。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネによる福音書1章18節) そして、ヨハネは20章28節でもこう書いている。 「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 ヨハネは、「イエスは神である」「キリストは神である」と少しのためらいもなしに言うことも書くこともできたのだろう。 しかし、わたしたちは「イエス・キリストは神である」というと同時に「イエス・キリストは人である」と言わなければならない。そうしないと仮現説、ドケティズムのあやまちを犯すことになる。 だから、わたしたちは時に神人イエス・キリストと言うべきではなかろうか。天地を創造された神が人となられた。のである。この奥義は測りがたい。 またの機会に「三位一体」についても書きたい。わたしは三位一体なる神を信じている。しかし、今の日本基督教団執行部のようにただ、「三位一体、三位一体」と口で唱えるだけのことには賛成できない。たぶん、最近よく「三位一体」がほとんど決まり文句のように言われるのは、敗戦後、熊野義孝が「三位一体」を強調したせいがあろう。しかし、わたしは、熊野義孝氏については、どうしても「戦争責任」のことが先に思われるのである。神学的言説において正しくとも、行為においてあやまつということはいくらでもあることである。バルトも「三位一体」を言ったが、バルトはヒトラーに抵抗した。熊野義孝は「天皇崇拝」にどう対したか。裁くことはすまい。自分がその時代に生きていたら、抵抗しなかったのではないかと思われるからである。しかし、今の時代、熊野義孝の姿勢をそのまま継承するのはどうかと思われるのである。 わたしが、洗礼を受けてから間もない間に「三位一体論」に関心を持つようになったのは、三位一体を否定する「エホバの証人」に母がなってしまったからである。そのために、わたしは他の多くの人たちよりも「三位一体論」についての書物を読むことになったと思う。最初はアウグウスティヌスの『三位一体論』であった。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2015-11-13 11:49
| 随筆
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