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主の道を歩み、彼を畏れなさい。(旧約聖書 申命記8章6節)
ここで「主を畏れなさい。」と言われている。わたしは、前から、「主を畏れる」「神を畏れる」ということがあまりに、わたしのいる日本基督教団には、少なすぎると思う。人を恐れることは、もうあたりまえのようにされていて、神を恐れることがされていない。自分達こそ正統と言わんばかりにアウグスブルグ信条を持ち出す人たちもいる。しかし、宗教改革から何百年もたっていて、宗教改革者たちがなお問わなかった「サクラメント」が、本当に聖書に由来しているのかさえ、問われているのである。カール・バルトは、新約聖書には「ミュステーリオン」という言葉しかなく、ラテン語の「サクラメント」と「ミュステーリオン」は違うと、『教会教義学』の最後で書いた。 宗教改革者たちによって、聖書がもう一度徹底的に問い直されたのだったが、なお問われずに残ったものがあるので、たとえ宗教改革者が言ったことであろうと、それが即、神の言葉であるわけではなく、それをもって、自ら正しいとするのは、間違っている。宗教改革者たちから真剣に学びつつも、聖書から新しく聞くという姿勢は、持ちつづけるべきだろう。古いものだから「良い」というのは怠け者の言うことである。 神を「畏れる」、あるいは神を「恐れる」、と反対は「神を馬鹿にする」ことである。これは、実際、教会でもありふれた現象なのである。「神は愛」であるから、と言って、どんなに多くの人たちが甘えたことを言い、甘えたことをしているか。 神の愛とキリストの十字架は不可分である。神を畏れよ。 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
by kokakusouhachi
| 2014-10-27 08:27
| 随筆
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