最新の記事
以前の記事
カテゴリ
記事ランキング
ブログジャンル
最新のコメント
フォロー中のブログ
風のたよりー佐藤かずよし 日本がアブナイ! 広島瀬戸内新聞ニュース(... そうはちのコラム そうはちのコラム2 御言葉をください 命最優先 大山弘一のブログ 放射能に向き合う日々 世に倦む日日 社会の動向・住まいの設計 最新のトラックバック
検索
タグ
キリスト・イエス(3643)
教会(3000) 安倍晋三(2024) 森友学園(1566) 加計学園(1390) 共謀罪(159) 日本基督教団(137) 佐藤優(64) 天皇制(42) 辞書(36) ブログパーツ
外部リンク
ファン
メモ帳
ライフログ
その他のジャンル
画像一覧
|
わたしは、自分でも妙な文章を書いていると思うが、それこそ徒然なるままに書いてみよう。わたしは、自分の文体がかわるような大きな転換を経験しつつあることを感じているが、それをある意味で促進する意味もあって、この文章を書いている。表現は、新しい自分に向けての試みとも言える。おそらく、これはわたしたちの主イエス・キリストの側からの働きかけによって、起きていることだろう。
わたしとわたしたちの主イエス・キリストとの出会いの端緒をつくったのは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を19歳の時に読んだことである。イヴァン・カラマーゾフの「プロ エト コントラ」のところと「大審問官伝説」のところ。このイヴァン・カラマーゾフの言説は、わたしにひとつの巨大なテーマを与えたのである。それは、神学者の言葉で言えば、「神義論」と言われていることである。いわば自然神学の「神の存在証明」の反対である。自然神学の「神の存在証明」は、自然から遡行して神の存在が証明できるとするのである。カントは『純粋理性批判』で、その証明は無効であるとした。わたしは、それを支持する。これと逆にイヴァン・カラマーゾフは、人間の悲惨、その中でも子どもたちの受難の例をあげながら、こういう世界をつくっている神様など信じたくない、というのである。これは強力な議論である。明らかに、ドストエフスキー自身が、このような議論を展開したと思われる。しかし、ドストエフスキーは、この自分の議論に安住はしていられなかった。というのは、ドストエフスキーは、キリストを信じ、神を信じていたからである。この信仰と不信仰が、小説の中で巨大なドラマを作り出しているのである。その際、ドストエフスキーは、ゾシマ長老をイヴァンに対立させるのである。ゾシマという人間をもって、イヴァンという人間を圧倒するのである。そして、ドストエフスキーのすごいところは、このイヴァンを父親殺しの暗黙の共犯者にしていることである。つまり、イヴァンは、「愛」を問題にするにしては、人を愛していないのである。言葉で言うほど愛していない。それでも、イヴァンの議論そのものには、多くの人が共鳴するものがある。これは旧約聖書の『ヨブ記』にも似た議論があるのである。 人気ブログランキングへ
by kokakusouhachi
| 2014-02-23 20:41
| 随筆
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||