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「戦争は嫌だ。もう二度と経験したくない。」というのは、戦争被害から言う人が多い。それで、戦争経験者、戦争被害者がいなくなると、戦争の悲惨さを経験した者がいなくなるから、「平和を求める」人たちが少なくなって、戦争するようになる、という人たちがいる。それは、一面の真理である。
しかし、戦争をとめているもう一つのものがある。それは、そう多くの人たちではないかもしれないが、加害責任を自覚した人たちである。 ここで「戦争責任」の問題が生ずる。「戦争責任」を抜きにして、「平和」を語ることは欺瞞であろう。被害者意識からだけでは、真に「平和を希求する」ということはできないだろう。 しかし、「戦争責任を追及する」だけでは平和は来ない。「平和を実現する」というのは、「戦争を阻止する」というだけでは足りない。教会が平和のために祈り、平和のために十字架を背負い、前進する必要があろう。そのことに、教会は多くの場合、失敗してきたと思われる。 敵意ではなく、愛が力をふるうことなしに平和は実現しない。 ボンヘッファーの言葉を思い出している。彼が、どう言ったか、もう一度読み直したいと思っている。 このところしていることは、「集団自衛権行使容認」に立ち向かうために、どうすればよいか、言葉と行動をどのようにすればよいか、祈りもとめているのである。 人気ブログランキングへ
by kokakusouhachi
| 2013-09-22 21:21
| 随筆
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