最新の記事
以前の記事
カテゴリ
記事ランキング
ブログジャンル
最新のコメント
フォロー中のブログ
風のたよりー佐藤かずよし 日本がアブナイ! 広島瀬戸内新聞ニュース(... そうはちのコラム そうはちのコラム2 御言葉をください 命最優先 大山弘一のブログ 放射能に向き合う日々 世に倦む日日 社会の動向・住まいの設計 最新のトラックバック
検索
タグ
キリスト・イエス(3643)
教会(3000) 安倍晋三(2024) 森友学園(1566) 加計学園(1390) 共謀罪(159) 日本基督教団(137) 佐藤優(64) 天皇制(42) 辞書(36) ブログパーツ
外部リンク
ファン
メモ帳
ライフログ
その他のジャンル
画像一覧
|
最後に、もう一つのことが言われていますが、それは、今日の説教題にしたことです。
しかし、その前に、もう一度、主がこれまで言われたことをよく心に留めたいと思います。言われていることが意味していることをよく考えないで聞くと、わたしたちはすぐ主の言われたことを忘れてしまうことになるでしょう。まず最初の わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが という言葉が何を意味しているか考えてみましょう。 「わたし」というのは言うまでもなく、「イエス」のことです。「イエス・キリスト」のことです。ペトロは何もかも捨てた、と言いましたが、それはイエスのためでした。キリストのためでした。また、ここでは「福音のために」とも言われています。これは「神の国」の喜ばしいメッセージのことです。イエスが語られ、わたしたちが今日も聞いている福音のことです。この「福音」のために「何もかも捨てた者は」と言われています。 さて、捨てられたものが列挙されています。「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑。」です。「家」とは住んでいたところのことでしょう。「兄弟、姉妹、母、父、子供」というのは家族のことでしょう。「畑」というものは財産のことでしょう。これを文字通り実行しようとすると、今日では修道院にでも入るしかないでしょう。しかし、修道院に入っても、主のこの言葉に従ったことにならないと気づいて、宗教改革者ルターたちは、修道院から出てきました。 ここで、問題になっていることは、あなたにとってイエス・キリスト以上のものがこの世にあってはならない、ということなのです。イエス・キリストは、わたしたちに全部を要求される方なのです。家族や財産など持っている一切のものをイエスのためならば、福音のためならば捨てる覚悟というものが求められているのです。この決断を迫られることは、わたしたちには過酷と思われるかもしれません。全部を要求されているとわたしたちは気づいて、それに反抗するかもしれません。実際、キリストはここでわたしたちに全部を要求されているのだと思います。誰が、このような言葉に耐えられるでしょうか。 わたしは今まで、高石教会での説教で、何度か「わたしはイエス・キリストに従う決心をするのに10年間かかった。」と話したことがあります。わたしには、イエス・キリストに従うには、多くのもの、いや自分の持っているもの全てを捨てる覚悟が必要だと考えて、なかなか決心がつかなかったのです。 しかし、このような途方もない要求をわたしたちに突きつけるイエスというお方は一体どういうお方なのでしょうか。考えてみますと、ここで途方もない言葉がやりとりされているのです。ペトロは、自分たちは、何もかも捨ててあなたに従って参りましたと言い、イエスはそれをよしとされて、さらに話を進めておられるのです。 イエスは、全部をわたしたちに要求されています。心のすべてをわたしに与えよ、と言われているのです。しかし、このような言葉を聞いても、わたしたちは何かイエスから離れられないような何かがある。イエスは、わたしたちからすべてを剥ぎ取って、わたしたちを御自分のものにしようとされる。 ある面で、わたしたちは激しい恋愛をしたとき、家や家族や財産のすべてを捨てて、恋人と駆け落ちするということがある。それと同じようなことをイエスはわたしたちに求められるのです。それほど排他的・決定的な愛をわたしたちから求められるのです。 イエスは、御自分にこのような愛を要求されるのです。イエスに従うとき、わたしたちは、家族、財産のすべてにまさってイエスを愛するように求められているのです。 ですから、これは、イエスがわたしたちに世の常ならぬ異常な求愛をされているのです。「すべてを捨ててついて来なさい」というのはそのようなことではないでしょうか。 わたしは10年間、執拗に迫ってくるイエスの言葉についに観念して、ついていこうと決心したとき、わたしは、イエスがわたしを命をかけて愛してくださっていることがわかっていたのだろう、と思います。どうしても忘れられないイエスの呼びかけ、そこにはわたしのためにも命を捨てられた方の思いがこもっているのを、わたしはどこかでわかっていたと思います。 わたしたちは、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑のもとに、わたしたちの命があると思い込んでいるようなところがあります。実はそれこそが、わたしたちを不自由にし、まことの命から遠ざけていることがわからずに、それらのものに執着する。自分の幸せは、家や兄弟、姉妹、母、父、子供、畑のもとにあると思っている。ところが、不思議な声が彼方から聞こえてくるのです。「そこにはまことの命、まことの幸いはない。わたしのもとに来なさい。」 そして、イエスは、「わたしについてくる者は迫害をも覚悟しなければならない。」とまで言われています。「全部手放しなさい。迫害をも覚悟しなさい。」こういうことを聞けば、誰でも逃げ出します。金持ちの青年でなくてもイエスのもとを去って、当たり前ではないでしょうか。しかし、イエスに従う人たちがいるのです。そして、あらたに従う人たちが今日も世界のどこかで起こされているでしょう。なぜか。 それはキリストの愛がわたしたちに迫っているからです。どんなに厳しいことが語られているようであっても、これがまさに愛の言葉であることに気づいた者は、キリストに従おうとするでしょう。 人気ブログランキングへ
by kokakusouhachi
| 2013-09-12 15:32
| 随筆
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||