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富める若者についてのぺリコーぺ、マルコによる福音書10.17-31の記事についてのバルトの釈義が、37節「神の要求としての誡め」の最後の所で、取り組まれている。そこを読みながら、長崎飽之浦教会を辞する直前に起きた出来事について思い出していた。
わたしは、しばしば「金持ちが神の国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しい」という言葉を思い出し、また、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」を思うことがあった。 しかし、今回、バルトがわたしに示してくれたのは、「らくだが針の穴を通るよりも難しい」のは金持ちだけでなく、わたしたちもそうなのである、ということである。わたしは、「イスカリオテのユダ」のことを思い出した。 ある意味でわたしたちはすべて、この金持ちの青年と同じなのである。いや、根本的に同じなのである。わたしたちがイスカリオテのユダと根本的に同じように。 わたしは、金持ちと自分を分けて考えていた気がする。 今回の選挙状況を思い、つくづくと、わたしは日本人であるのが嫌だと思っていたが、わたしだってそうかわらないのである。人を見下したりはできない。この富める若者の姿に日本人全体がダブッて見えたのである。
by kokakusouhachi
| 2012-12-18 14:40
| 随筆
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