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バルトのキリスト論はいつごろから始まったのだろうという新たな問いをいだくようになって、『教会教義学』以前の講演、著作などの論文を読み直す気になって、1922年の『キリスト教宣教の危急と約束』(邦訳 『カール・バルト著作集 1』所載)を読み直していて、今までいかに多くの所を読み落としていたかを知らされる。バルトはここで、すでに自分が宗教改革者たちの立場に立とうとしていることを明らかにしている。
ここではまだ後に強調されるほどにキリスト論的ではないかもしれないが、キリスト論がはっきり重大事として意識されているのは間違いあるまい。1922年の時点でそうなのである。 また、キリストの名が多く出されるというのではなく、「神の言葉」というものが意識されている。まず、「神の言葉」が問われたのではないか、と思われる。 バルト自身は、自分の神学を「神の言葉の神学」と呼ばれることを望んだ。弁証法神学という言い方も新正統主義という言い方も、バルトは喜ばなかったようである。 最初に「神の言葉」が問われたのだと思う。第一次世界大戦が起きて、彼は講壇にのぼり説教するのに困難を覚えるようになった。なぜなら、先生のヘルマンから教わったものではうまくいかないことに気づいたからである。 バルト自身は、自分のそれまでの、つまり第一次世界大戦が始まるまでの自分の神学は、ヘルマンと子供のころから教わって来た改革派の神学とをまぜあわせたようなものだっとまとめて言っているところが、この『キリスト教宣教の危急と約束』の中にある。 私は12年の間あなたがたと同じ教師であり、自分の神学を持っていた。もちろん、自分で造り上げた神学ではなく、私の忘れ得ぬヴィルヘルム・ヘルマンの神学であり、それを、私の故郷において与えられ、意識的というよりも無意識的に受け継いだ、改革派的傾向と結合したものであった。(前掲書139頁 大宮ひろし訳)
by kokakusouhachi
| 2012-10-05 15:44
| 随筆
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