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悪とは善の欠如であるというのは、アンセルムスの「悪」に対する根本的な理解である。バルトはどう言っているのか、確かめたくなった。
わたしはかつて無意識にアウグスティヌスのこの定義を受け入れていたが、バルトがアウグスティヌスに否定的であるところを読み、アウグスティヌスを無意識の内にも全面的に否定しようとしていたところがあったように思われる。 神学校でアウグスティヌスの「癒された自由意志」について語って、神学校の先生から否定的な返事をもらったこともあった。そこで、わたしは、このあたりのことを不問に付してしまっていたのかもしれない。また、バルトの議論の中には、このような問題が前面に出てきているようには思えなかったからである。 しかし、もう一度考究すべき問題が残っていると思わされ始めた。宗教改革者たちの前にも、神学者たちはいて、重要な問題を論じているのであって、それを無視してはいけないだろう。
by kokakusouhachi
| 2012-08-25 16:09
| 随筆
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