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その事件は1976年の秋に起きた。
私は、その千葉にある重度身体障害者入所施設ベテスダホームに勤めて2年目だった。私は労働組合の委員長をしていた。ベテスダホームでは毎年秋に文化祭が行われ、それは外部の人たちにも公開されて、ボランティアの人たちもやってきていた。そこである大きな事件が起きたのである。 しかし、事件そのものよりも、その前に私の身におきたことが決定的だったのである。わたしは、その頃、組合の委員長になって2年目だった。組合員は50数名。その他は管理職が数名いるばかりで、いわゆるクローズド・ショップの組合だった。つまり管理職以外は自動的に組合員になる制度になっていた。わたしは、組合員となるとほぼ同時に組合の委員長になった。なったというより、ならされた。わたしは、試用期間の3ヶ月を過ぎた直後に委員長になったのである。 普通ありえないようなことがなぜ起きたのか。ここには陰謀があったのである。 わたしがベテスダホームを最初に訪問したのは、1974年の暮れのことだった。わたしは、大学を出て就職しなければならない時を迎えていた。それで、わたしは就職については大いに悩んでいた。 それは、最初に勤めた会社での経験と大いに関係している。わたしは名古屋にある愛知機械という会社に20才の時勤めて10ヶ月ほどでやめることになった。その時、わたしは初めて社会というものに直面し、日本や世界のことについて考えるようになった。 そして、トインビーの『歴史の研究』などを読みながら、どのように生きればよいのか道を求めていた。大学ではドイツ文学専攻ということになり、カフカなどを読んでいたが、それも道を求めるためだった。就職の時期が迫って来たとき、私は、今度どこに勤めるべきかと考えた。最初の職場では、ほとんど戦わず逃げたという思いがなかったわけではない。 だから、就職先を探したとき、名古屋のあるインター・ホーンの会社の求人があったとき、わたしはもといたところの近くに戻ってみようかと考えたのである。 そして、わたしは受験し、面接を受けた。面接で私は、「あなたは文学を勉強してこられましたが、うちはインターホーンの会社です。いままでやってきたことを捨てて、新しいことができますか。」という内容のことを聞かれた。もう正確に言われた言葉を思い出すことはできない。わたしは、面接の時、「忠誠心を問われる」と覚悟していたので、無理をして答えた。その時の答えをもう思い出せない。しかし、そこにいた数人の面接担当の人たちはわたしの答えを聞いて、どっと笑ったのである。わたしは、そういう効果をねらった言葉を語ったのである。つまり、今までと違ったことを始める覚悟はあると感じさせるような言葉を語ったのである。わたしは他の就職希望者より5才ほども年長だった。会社の人たちがどっと笑ったのは、わたしのやる気と会社の忠誠心を感じたからである。わたしは、そのように答えたのである。しかし、わたしは、その笑いを聞いた時、試験は合格したとは思った。と同時に、「無理だ、合格したろうけれど、あまりに無理をしなければならない。ここに来るのはやめよう。」と思ってしまったのである。
by kokakusouhachi
| 2012-08-02 10:15
| 随筆
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