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わたしはしばらく前に、集合的な無意識と個人的な無意識の領域のことについて書いたが、これは無意識の領域の方が意識の領域より大事、と言ったわけではない。
たとえば、聖書を読んでいて、その言葉があまり意識されずに、無意識の領域で眠っていることがある。それが、ある時、意識の領域で光を放つということはあり得るのである。 わたしがこれを書くのは、自分におきた出来事のことを考えているのである。あの1972年の危機のとき、わたしの心に「天地は滅びるだろう。しかし、私の言葉は決して滅びることはない。」という主イエスの言葉が響き渡ったのであるが、あれは明らかに、わたしの心の中に聖書の言葉が蓄えられていたのであり、その一つが光を放ったのである。そして、この言葉はわたしの全存在に向かって語りかけられ、わたしはそれ以来、その言葉を忘れたことがない。 意識に上るということが大きな意味を持っているのがわかる。 意識の領域で起きることは、導きとなるのである。また、意識に上ることによって、わたしたちはそれから自由になれることもある。これは御言葉のことではない。それから自由になれることは。御言葉はむしろ私たちを自由にする。
by kokakusouhachi
| 2012-08-01 10:55
| 随筆
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