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『善の研究』のあちこちを拾い読みしているのだが、「実在」と「善」のところをところどころ読み直していて気づくのは、西田は「善」を「実在」と「自己」の合一と考えている、ということである。西田がしばしば、エックハルトの名前を出すのは、神秘主義とのある親近性を意味しているだろう。
また彼がアウグスティヌスに親しみを示すとき、その新プラトン主義に自分の哲学と共通するものがあるからであろう。彼は、インドの古代の哲学、仏教、キリスト教、ギリシャ哲学などすべてに共通するものを「実在」としていて、その「実在」に合一していくことを「善」としている。「善の研究」とはそういうことを意味している。 キリスト教が、「実在」ではなく「神」を、「善の研究」ではなく、「愛の実践」を言うのに対応しているというと、キリスト者にはわかりやすいかもしれない。 いずれにせよ、カール・バルトの弟子であるわたしは、これは「自然神学」ではないか、と思ってしまう。それにしても西田幾多郎は弟子の滝沢克己をバルトのもとに送ったというのは興味深い話である。バルトは、滝沢にブルトマンのところに行くことをすすめたようであるが、滝沢は行かなかった。おそらくそれは、ハイデガーは、「存在」を問題にし、「神」を問題にしていなかったと西田が評していることと関係あるだろう。
by kokakusouhachi
| 2012-04-23 09:52
| 随筆
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