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カルヴァンというと名前を聞いただけで嫌う人がいるけれど、わたしは彼の注解書を喜んで読んでいる。ただし、例の二重予定説だけは、正しい聖書の読みだとは思えない。新教出版社から「共観福音書注解 上」だけが出ていて、「下」が出されていないらしいのが残念である。
マルコ2.27について彼はこう書いている。森川 甫訳。405頁。 マルコだけが第五の論拠に触れている。ところで、要するに、神が人間の利益のために定められた安息日を人間の破滅や破壊のためのものに変えるものたちは、誤って解釈しているということを意味している。バリサイ人たちはキリストの弟子たちが聖なるわざに励んでいるのを見ていた。彼らは弟子たちが旅で疲労し、また同時に飢えで苦しんでいるを見ていたが、しかし、弟子たちが空腹になったとき、疲れた体に栄養を与えるために少し麦の粒を摘んだのをパリサイ人たちは怒った。人間を助けるために神が意図された安息日の順守を人間を損なうために求めるのは、神の意図を愚かにもくつがえすことになるのではないか。さらに、私の考えによれば、この節により、安息日は全く廃止されていると考える者たちは間違っている。なぜならば、キリストはただ安息日の正しい使用を示すことのみを意志されているからである。というのは、少し前に、彼は「安息日の主」であることを主張されたけれども、安息日を廃止する真の時期と適当な時はまだ来ていなかったからである。なぜならば、「神殿の幕が」まだ「裂けて」(マタイ27.51)いなかったからである。
by kokakusouhachi
| 2012-04-02 16:41
| 随筆
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