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浜寺公園を朝、散歩していると、ときおり、故郷のことを思い出す。岡山のわたしの家の前には、小川が流れていて、ふなやメダカやどじょうがいた。農業用の用水路というところがあって、ところどころにガンギといった、水をせきとめるところがあった。ここに板を差し込んで、水をせき止め、田んぼに水を流しいれることをし、その上で田植えをしたのである。今もある私の実家は、三方を田んぼで囲まれていた。今は、もう田んぼの姿はない。家や駐車場になっている。昔は、台風が近づいてくると屋根の上にのぼって、瓦の上に座ってみていると、台風の風が、青葉を茂らせているイネの上を吹きつけてきて、田んぼが大海原のように波立つのである。
家の前の農家の畑のはずれには野つぼがあって、そこには近寄らないようにしていた。二つあったのを覚えている。そして、遠くの野ツボの向こうに道があった。その横に川があった。それを渡ると、練兵場の跡があって、広大な空き地が広がっていた。そこに、丸いコンクリートの台があったが、あるいは高射砲が設置されていたのであろうか。ここで、子供のわたしたちは凧をあげたりしていたし、ときおり、グライダーもあげられていた記憶がある。草地の中で、バッタをとったりしていた。しかし、ここは、中学生のときだったと思うが、国民体育大会の会場にするので、整地がされていったのである。そして、今は、運動公園という名前で呼ばれている。 母は、岡山で空襲の経験をしていて、敗戦と知って、最初に思ったことは、もう空襲をこわがらずにすむということだった、という。その前に、広島でも、長崎でも原子爆弾が投下され、多くの人たちが死に、傷ついていたのである。 永井荷風の「断腸亭日乗」には、荷風が岡山に空襲を避けて東京から避難してきて、岡山でも空襲にでくわしたことが書かれている。岡山では、天満屋の地下で多くの人が焼け死んだ、という。
by kokakusouhachi
| 2011-11-02 19:03
| 随筆
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