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西尾幹二訳で、「この人を見よ」を少し、読み直してみた。バルトの「教会教義学」を読み進めている内に、しきりとニーチェのことが思い起こされてくるので、手にとる気になったのである。読んでいると、ニーチェが病気がちであり、大学の仕事をやめなければならないほどに、体力が落ちたときがあるのがわかる。
このニーチェの健康問題にわたしはこれまでほとんど関心を持っていなかったが、これは、彼の思想に大いに関係あるらしい。 しかし、ニーチェがキリスト教をルサンチマン(内攻的復讐感情)によるものだ、というのは、これはあたっていないのではないか。 わたしがニーチェに新たに目を向け始めたのは、彼が、「主なしであろう」としたこと、徹底してそうであろうとしたことの実態を知りたい、ということがある。 イエス・キリストを信じるということは「主を持つ」ということである。「自分は主ではない」ということである。パウロの言い方によると「キリストの奴隷である」ということである。ニーチェは、徹底して、自らが主であろうとした、「神は死んだ」というのはたぶん、そういう意味であろう。そして、彼は「超人」を主張した。自らが徹底して「主」であろうとした、ということで、ニーチェほど自覚的にそのことをした人はいないのではないか。彼が、どのような考え、どのように生きたか知りたくなったのである。 それに比べて、イエス御自身は、徹底して神に忠実であろうとした。イエス御自身も「主」なしではなかったのである。そもそも神を信じるということは「主を持つ」ことなのであって、ニーチェはそのこと自身に攻撃をしかけていたように思われる。それは「デカダンスだ」と。
by kokakusouhachi
| 2011-09-12 10:40
| 評論
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