最新の記事
以前の記事
カテゴリ
記事ランキング
ブログジャンル
最新のコメント
フォロー中のブログ
風のたよりー佐藤かずよし 日本がアブナイ! 広島瀬戸内新聞ニュース(... そうはちのコラム そうはちのコラム2 御言葉をください 命最優先 大山弘一のブログ 放射能に向き合う日々 世に倦む日日 社会の動向・住まいの設計 最新のトラックバック
検索
タグ
キリスト・イエス(3643)
教会(3000) 安倍晋三(2024) 森友学園(1566) 加計学園(1390) 共謀罪(159) 日本基督教団(137) 佐藤優(64) 天皇制(42) 辞書(36) ブログパーツ
外部リンク
ファン
メモ帳
ライフログ
その他のジャンル
画像一覧
|
「イエスは主なり」という言葉をパウロは書いているが、このことと自由ということを考えてみた。
人間が判断して、これが「自由」と思うものと、神が判断されて、これが「自由」と思うものは、違うということを、バルトの三位一体論を読みながら、また「受肉の教説」の最初のあたりを読みながら、考えさせられていた。 神は自由なお方か。そう信じる。 イエス・キリストは自由なお方か。そう信じる。 そして、ここからだけ、人間の自由も考えるべきだ、ということを、かなり明確に思うようになった。 ドストエフスキーの小説のある登場人物の有名な言葉があるが、自由について考えるとき、それから始めるべきではないだろう。 「すべてのことは許される。しかし、そのことを知っているものは、それをしないだろう」 このとおりではないが、キリーロフの言葉である。 わたしは、自由ということを考えるとき、ここから考えるのではなく、わたしは真理である。真理はあなたがたを自由にするであろう」という主イエスのみ言葉を第一としよう。 本当の自由がどのようなものかを、神と主イエスのみが、知っておられるし、実際、そのように生きておられる。このことは、信じられるべきことであって、証明できるようなことではない。
by kokakusouhachi
| 2011-09-01 10:06
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||