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しかし、主の慈しみは いにしえからとこしえまで主を畏れる者の上にあり その義は子らの子に その契約を守る者に その諭しを心に留めて行う者に及ぶ。 詩編104篇17,18節 (愛する兄弟姉妹)ここで「主の慈しみ」と言われています。この「慈しみ」は、「神の憐れみ」であり、「神の恵み」であり、「神の愛」であるともいえるでしょう。それは「いにしえからとこしえまで」あなたの上にあるものだ、と言われているのです。ここで注意したいのは、「主を畏れる者」という表現です。「畏れる」という言葉が使われています。わたしたちは、「神を愛する」という表現の方に慣れていることが多いので、「主を畏れる」という表現には違和感を覚えてしまいます。しかし、旧約聖書を注意深く読んでいると、「主を愛する」という表現はほとんど記憶がないぐらいです。わたしは思い出せません。「主を畏れる」と表現の方が圧倒的に多いでしょう。では、この「主を愛する」ことと「主を畏れる」ことは相容れないものでしょうか。決して、そうではないでしょう。神を侮りながら、神を愛することはできないし、神を畏れることなしに、神を愛することはできません。なぜなら、聖書で「神」と言われている方は、わたしたちを造り、わたしたちの命を与えていてくださるかただからです。わたしたちを「塵」から造り、塵に戻される方だからです。神に逆らい、罪を犯した者に死を宣告された方です。しかし、神はほむべきかな。滅ぶべきわたしたちに「永遠の命」を与えるために、神は御子を送ってくださいました。そして、十字架の上で、私たちの罪を取り除き、私たちの死を取り除いてくださったのでした。
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by kokakusouhachi
| 2025-05-17 09:13
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私は主を待ち望む。 ヤコブの家から御顔を隠されていても 私は主に望みをかける。 イザヤ書8章17節 (黙想)「主を待ち望む」と言われている。「主を待ち望む」とは、どういうことであろうか。これは、主なる神が来られて助けてくださるのを待ち望む、ということだろう。今は、神が、「私に」「ヤコブの家に」を顔を背けられているように思われる。しかし、神はいつまでも私たちを放置しておかれないだろう。「私は主に望みをかける」「私たちは主に望みをかける。」
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by kokakusouhachi
| 2025-05-16 09:10
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神の求めるいけにえはくだかれた霊 神よ、砕かれる悔いる心をあなたは侮りません。 詩編51篇19節 聖書協会共同訳 (思ったこと) この詩篇第51篇は、ダビデがバト・シェバと通じたことで、預言者ナタンがダビデのもとに来たときのものとされている。 ダビデは「くだかれた霊」と言っている。これは誰の霊か。ダビデの霊であろう。ダビデは、預言者ナタンがダビデに告げた神の言葉に打ち砕かれたのである。しかし、ダビデは、神が預言者ナタンをダビデのもとに送ってくださったことを感謝することができた。そうでなければ、ダビデは、自らの罪を悟り、悔いることはなかったであろう。「神よ、砕かれる悔いる心をあなたは侮りません。」
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by kokakusouhachi
| 2025-05-15 08:53
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主よ、悪しき者の欲望を許さず そのたくらみを遂げさせず 彼らを高ぶらせないでください。 詩編140篇9節 聖書協会共同訳 (思ったこと) この詩篇140篇は、ダビデの詩とされている。全体を読んでみると、どうもダビデは、ダビデに敵対する者の、言葉によって苦しめられていたらしい。かれは「悪しき者」とか「暴虐の者」とかいう言い方をしている。「悪しき者」は、「たくらみ」をもってしてでも欲望を満たそうとしている。そして、そのたくらみを成功させ、最後は誇りたかぶろうとする。そうならないようにしてください、とダビデは神に祈っている。私は妻と共に毎日のように韓流ドラマを観ているが、宮廷ドラマなどでは、権力争いのために陰謀術策がたくらまれており、また、口をもっての攻撃もすさまじい。しかし、これは何も韓流ドラマに限ったことではない。こうしたことは、別に宮廷でなくても、人間世界においてはよく起こっていることである。しかし、ダビデは信仰者である。彼は、「陰謀には陰謀をもって」「言葉には言葉をもって」対抗しようとしてはいない。彼は、主なる神に心を向け、助けを求めて祈るのである。
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by kokakusouhachi
| 2025-05-14 10:06
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私はあなたの仰せを喜びます。 多くの戦利品を見つけた者のように。 詩編119篇162節 聖書協会共同訳 (説き明かし) 「私」は、この詩篇の作者であり、「あなた」とは、「イスラエルの神」であり、「イエス・キリストの父なる神」である。 あなたの命を造られ、今支えられておられる方のことである。神を信じている者は、神の仰せ、神の言葉に喜んで聞き従う。そして、時には、戦わなければならないこともある。その時にも、勝利を得、戦利品を獲ることになるだろう。この「戦利品」についての思いは、21世紀の現代に生きる者たちの思いとは遠い。戦利品どかころか、瓦礫の山が待っているのである。今日では二度の世界大戦を経験しており、このような所を読む時には、複雑な思いにさせられる。それに主であるイエスは、「平和を実現する者は幸いだ」と言われたのではなかったか。しかし、私たちキリストを信じている者たちは、キリスト者たちや教会が戦わなければすまない時があることを知っている。それは、決して、剣や大砲やドローンや核兵器を使っての戦いではなく、祈り、御言葉を剣年、信仰を盾とする戦いである。この戦いにも戦利品というものはあるだろう。
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by kokakusouhachi
| 2025-05-13 09:41
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