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バルトはすでに『キリスト教教義学』において、キリスト教的啓示概念は「『神語りたもう』(Deus dixit)という短い命題の主語と述語と目的語とを問う問い」に対する答えの中で見いだされねばならないと考えており、さらにこの啓示概念を三位一体論を基礎づけるものと見なしていた。バルトはさまざまな矛盾に出会ったにもかかわらず、『教会教義学』においてもそのことを固執しているのである。(エバハルト ユンゲル)
私は、このDeus dixit をあまり重視してこなかった。しかし、まさに、これがバルトの「啓示概念」の言表なのだと思う。つまり、カール・バルトは、『ローマ書講解』などで、「神が自分に語りたもうた」という経験をしていたので、このような表現をしたのだと思われる。 バルトは『キリスト教教義学』で論じたことをキリスト論的に純化して、『教会教義学』を書き始めたと思われる。このキリスト論的に純化することは、バルトのアンセルムス研究の中で示されたものがあるのだと思われる。キリスト論的集中はDeus dixit と表現した時には、すでにかなり始まっていたのではないか。しかし、バルトには、まだ実存主義的思考が残っていた。キルケゴールの影響が強かったと思われる。バルト神学には、哲学が混入していたのである。「神は神である。世界は世界である。」とクリストフ・ブルームハルトからバルトは聞いている。それを徹底すれば、「神学は神学である。哲学は哲学である」ということになる。神学は、啓示による他ない、ということであって、哲学的思考を拒否するということである。それは自然神学を拒否するということである。 にほんブログ村 人気ブログランキング
by kokakusouhachi
| 2018-04-19 12:58
| 随筆
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