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カール・バルトにおいて、キリスト論的集中がいつごろから始まったのかということが、以前からのわたしの問題だったが、今日、『神の人間性』を再読した後、再び、この問題が強く意識に上って来た。
基本的には、私は『教会教義学』を書き始める時に、その立場は定まっていたと考えている。 神の言葉とはイエス・キリストのことである、とバルトが言うとき、キリスト論的集中が行われているのである。 わたしは、『神の恵みの選び』という講演が、キリスト論的集中の初めかと考えたが、これは1936年にされているので、既に1932年に『教会教義学』は出され始めていることを考えるなら、そうではないことがはっきりしている。 それで次に思い浮かべるのが、バルトが1925年から1926年に講義をした『ヨハネによる福音書』の冒頭のところである。 たぶん、『ロマ書講解』においても、キリスト論はあるのであるが、それが決定的に意識されて、キリスト論的に論じられているということではないのだろう。 おそらく、アンセルムス研究をして、『知解を求める信仰』を書いたあたりで、哲学がらみを振りほどき、キリスト論的集中をしていく方向に向かって行ったのではないかと思われる。『教会教義学』を書き続けていくうちに、キリスト論的集中も強まっていったのてはなかろうか。つまり、『キリスト教教義学』を出し始めて、それを破棄して、『教会教義学』を書き始めた頃までの過渡期において、キリスト論的集中が始まったのではなかろうか。哲学の殻をキリスト論によって、打ち破って、前進するということが始まったのではなかろうか。 この問題は、神学者たちの間では既に議論が行われ、ある程度定説ができているかもしれないが、学者の世界に身を置いていない私としては、知りようもない。この問題を取り上げている論文があれば読んでみたいと思う。 人気ブログランキング にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2018-04-07 20:42
| 随筆
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