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今、吉永正義訳で、『教会教義学』の第二巻第一分冊第一部を読んでいる。
第五章 神の認識 のところを読み進めているのだが、25節の「神認識の実現」、26節の「神の認識可能性」を読み終わり、第27節「神認識の限界」に入りつつある。もう5度目ぐらいである。もう一つ分からない、という思いで読み返している。そして、どうやら、理解の発端に立つことができたようである。それは、今朝、朝起きた時に、「わかった」と思ったのである。脳は、わたしたちが寝ている時も働き続けているらしく、整理を続けてくれているらしい。 わたしは、こう思ったのである。「バルトは神を認識することも神の恵みのみによる」ということを言いたかったのである、ということである。これは、「聖書のみ」を徹底し、さらに「聖書における啓示のみ」に達したということである。これは、ルターもカルヴァンもしなかったことである。そして宗教改革以後、誰もしなかったことである。また、宗教改革者たち以前の誰もしなかったことである。「アンセルムスはそうした」とバルトが言いそうであるが、ちょっと結論づけられない。 ルターは「信仰のみによって義とされる」と言った。しかし、バルトはそれに付け加えて、「神の恵みによってのみ、神は認識される」と言ったのである。バルト以前、宗教改革者も言わなかったことである。 吉永正義氏は、あとがきの中で「認識論における恵みのみ」をバルトは言ったというのであるが、そういう言い方もできよう。そして、「自然神学の徹底的排撃」というようなことも書いておられる。 これは、宗教改革的な言い方をすれば、「信仰によってのみ義とされるのであって、行為によって義とされるのではない」に対応している。その場合、バルトはこういう言い方をするのである。「神は、自然によって認識されるのではなく、神は聖書によって認識される。もっと厳密に言えば、聖書に書かれている啓示、すなわちイエス・キリストによってのみ啓示される」 宗教改革の三大原理として「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」が言われる。しかし、「聖書のみ」では、十分問題が明らかになり得ないということが宗教改革後、近代プロテスタンティズムによって明らかになってきたのである。「聖書にも自然神学があるではないか」という声があがってきた。特に「ローマの信徒への手紙」一章18節から32節のようなところによってである。そのような箇所は、自然神学を聖書もゆるしている、という解釈をゆるしてきたのである。聖書では自然神学を推奨していると言えないこともないように思われたのである。そこのところをバルトは徹底的に吟味したのだった。 バルトは、「自然神学を徹底的に排撃することがわたしの目的ではない、神の啓示に固着することがわたしの目的だ」という内容のことを言っている。 バルトは「自分の神学をなづけるなら『神の言葉の神学』が適当である」といった内容のことを語っている。バルトは『聖書の神学』あるいは『聖書神学』と言おうとはしなかった。それは、「聖書は神の言葉であるが、それは啓示によって神の言葉なのであって、旧約聖書も、新約聖書も『神の啓示』を証しているのである。そして、『神の啓示』とはイエス・キリストのことであり、『神の啓示』とは『神の言葉』のことであり、『神の言葉』とはイエス・キリストのことである」とバルトは言おうとしてると思われる。 このようにして、私は新しい認識の段階に達した。それは、神の恵みの出来事によって、起きたと私は信じる。 イヴァン・カラマーゾフの根本的な問題は「神を知らない」「神と出会っていない」「神を信じていない」というところにあろう。彼は、神を知りつつ、神に文句を言ったのではない。彼は、むしろ悪魔を知っていたのである。イヴァンに悪魔が現れる場面をドストエフスキーは書いている。そして、大審問官の「荒れ野の誘惑」の場面での悪魔の言い分についての擁護は、イヴァン自身の考えでもある。イヴァンは神と出会っていない、だから神を知らない。これが、イヴァンの秘密である。アレクセイ(アリョーシャ)は、兄の議論に理論的に反論できないが、イヴァンが神を知らないし、神を信じていないことを見抜いている。 ここで、旧約聖書にある「ヨブ記」を思い浮かべるのであるが、この書は「神義論」の書であると言われることがある。そして、イヴァンの言葉も「神義論」と呼ばれることがある。しかし、この二つの「神義論」は全く別のものである。ヨブは神を信じつつ、「神義論」を展開している。イヴァンは神を信じないで「神義論」を展開しているのである。 ところで、イヴァンを『カラマーゾフの兄弟』で登場させたドストエフスキーは、アレクセイも登場させたのであり、アレクセイに味方して書いているのは間違いない。おそらく、こういう事情が、ドストエフスキーにあった。それは、イヴァンのような考えを持った時期がドストエフスキーに長くあったのである。そして、小説『カラマーゾフの兄弟』の中で、それを克服しつつあったのである。ドストエフスキー自身は、おそらく若い時から神を信じていた。神を知っていた。しかし、多くの考えが彼を苦しめていたのである。 最後に彼は、ルカによる福音書に書かれている「放蕩息子の帰還」を読んでもらって、死んだ。彼は、自分の生涯を振り返ってみた時に、自分の生涯が「放蕩息子の生涯」であると思ったのであろう。そして、自分が離れてしまいかねなかった、神のもとに戻りたいと思ったのであろう。ドストエフスキーは「放蕩息子」を責めもせず、迎え入れてくれた神を信じつつ、死んだのだった。 にほんブログ村 人気ブログランキング
by kokakusouhachi
| 2018-02-20 10:45
| 随筆
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