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どうやら、自死らしい。
私は、直観的に、彼が行き詰まりを覚えたのだと思った。彼の書いたものはほとんど読んでいなかったが、先ほど、西部邁の名前で検索してみると、安倍首相のことを論じているものを見つけた。なるほどと思った。結局、彼は、今の日本に絶望して自殺したのである。ほとんどそう言いきれるぐらいであろう。彼が、憤っていたのは、彼が特に「ジャップ」と呼んでいた人たちに対してであろう。アメリカに日本が属国同様になっていることに平気である人たちを軽蔑して彼は「ジャップ」と言ったのであろう。この「ジャップ」には、、おそらく安倍首相も入っているだろう。彼は、最期には安倍首相にも絶望し、彼を支持している人たちにも絶望していたのだろう。そして、自分と憤りを共有してくれない日本人に働きかける気力も失ったのだろう。 以上は、私の直観に過ぎないのであるが、もう一つ書いておけば、私は、この文章を書きながら、三島由紀夫の自殺を思い出していた。 三島由紀夫は、あの時、自衛隊員たちに向かって、決起を促したのだが、結局、三島由紀夫一人で何ができたろうか。彼も行き詰まって、自殺したのである。 わたしも、今の日本がひどい状態だと思う。日本人は、ほとんど生きる道を見失っている。気力も独立心も失っている。 田原総一朗氏によれば、彼は、極端に曖昧なことが嫌いだったそうであるから、今の日本のきわめて曖昧でいいかげんなことに堪えられなかったのだろう。 これは、わたしの直観である。だから、これはほとんど感想にすぎない。 わたしは、安倍政権をやめさせることができない日本は、相当の重病にかかっていると思う。 わたしは最近、かなりの行き詰まりを感じていた。実は、インフルエンザに相当、打ち負かされたのは、そのせいだとさえ感じている。インフルエンザになったのは、安倍政権のせいだとさえ思った、ということである。これはもちろん極端な言い方で、説得力はないだろう。これは、わたしの気持ちを表現しているだけである。 ただ、こうは言える。彼は彼なりの立場から、今の日本人たちに働きかけていたのだが、それをこれ以上続けるのに疲れ果てたのだろう。 私は、わたしの信じるところから、ごく小さな範囲ではあるが、安倍政権がめざすところに反対し続けてきた。彼と彼を支持する人たちに、西部とはちがうところから批判してきた。 わたしもまた、安倍政権批判に疲れてきたということはある。言っても無駄ということで、次第に無口になっていくということはある。そして、病気をして、このブログに安倍政権批判の記事を投稿する気力も失ったのである。 それにこういうことはある。怒りというものは、あまり激しくなると、ほとんど叫びになり、言葉にするのが難しくなる。そして、怒りは健康を損ねる。 しかし、私と西部氏と決定的に違うのは、わたしがイエス・キリストを信じていることである。この違いは決定的である。 わたしは何しろ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれた方を、わたしたちの救い主と信じ、神のみ子と信じている。ボンへッファーは、イエスのこの十字架上の絶望的な叫びを「義を求める祈り」と言った。わたしはなるほどと思った。 イエスは、最後まで、義を求めて前進することをやめられなかった。そして、殺されたのである。決して、自殺をしたのではない。(ここで自殺は、罪であるとよく言われることについては論じない。これについては、自殺を特に強調することに問題があると思われる。詳しく論じる紙面はない。) イエスは、罪と戦い続けて、殺されたのである。そして、十字架の上で、全人類の罪を背負って、死なれたのである。そして、それこそが、キリストの勝利なのである。イエスは、御自分を罪びとたちが殺すのを受け入れられた。そうでなければ、イエスは、逃亡して、生き続けることも可能だったろう。しかし、イエス・キリストが罪人たちの手にかかり、死ぬことを受け入れられなかったら、わたしは自分に救いはないと思っている。そして、ここで今、このブログ記事を書くようなことなどなくて、西部氏のように自殺していたかもしれない。 この「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれたイエスこそを、神は死人の中から初めて復活されたのである。このことを、わたしは30年間にわたって考えている。そして、その時は、日本人であるとかないとかいうことは、全くどうでもいいことである。そこも西部氏とまったく違うことである。 決定的なことは今なお、「罪と死の支配」を打ち破って、神はイエスを復活させられた、ということである。 極論を言えば、天皇制のことを論ずることなど、本当は大したことではあるまい。しかし、日本における教会は、この天皇制に迎合して、罪を犯して来たのだから、やはり問題なのである。しかし、その場合、イエス・キリストの死と復活により、天皇制は決定的に打ち負かされている、といいうことを忘れてはいけない。日本における教会は、その点、明確な認識を持ってこなかった。戦後70年が過ぎた。このことは、今こそ、はっきり言われなければならないであろう。 西部邁も、三島由紀夫も、天皇崇拝者だったろう。その点、私は全く正反対のところに立っている。 そろそろ日本人も天皇教という古代の迷信から目を覚ますべき時である。 最後に、この文章を書き始めた時、何を思っていたか、少し明らかにしておきたい。おそらく、西部邁氏は、日本の「保守」の行き詰まりを感じていたのであろう。いわゆる「左翼」の人たちも行き詰まりを感じているだろう。しかし、そうした人たちは、逮捕されるか、最後は弾圧されるか、そのことを思いつつ、いかに戦い続けるかが課題となっているだろう。そして、左翼的思想家・行動家は、自殺を選びはしないであろう。それでも、今の自由を重んじている人たちは、確かに、時代閉塞の息苦しさを感じているだろう。わたしにとって、西部氏の自殺が、ひとつの衝撃に感じられたのは、ある意味で右翼の人たちも絶望するような世の中に日本はなっている、ということである。軽薄なこと、ものを考えないこと、皮相なこと、あまりの曖昧さ。そして、奴隷根性。「忖度」と言えばまだ、やさしい言い方であるが、「奴隷根性」と言った方がいいのではないか。 「罪と死と悪魔」に対する奴隷根性。これに対する勝利は、すでにイエス・キリストによって勝ち取られている。 人気ブログランキング にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2018-01-21 23:22
| 随筆
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